アリスズc

 心の中の彼女に、ようやく名前がついた。

 レチ。

「あなたの…名前は知ってたわ…」

 そらした瞳の向こう。

 何を見ているのかも分からない様子で、彼女がとつとつと言葉を紡いだ。

 名前を言い合ったことで、少しは落ち着いたのだろうか。

「テイタッドレック卿の子息も知ってらっしゃったし、あなたのお母様も呼んでらっしゃったから」

 イエンタラスー夫人宅で、卿と手合わせをしたことがあった。

 その時に、リリューが名乗ったことを、彼は覚えていたのだろう。

「でも…」

 困惑した声が、その後に続いた。

「でも…賢者の子息だったなんて…」

 深い落胆が、そこには感じられる。

 とても、そんな偉い人の子どもに、リリューが見えなかったのだろう。

 実際、その通りだ。

 賢者である父親の出自は、農村だ。

 いわゆる、ド平民である。

 賢者になったからといって、貴族の真似事などするような人ではない。

 母は、言わずもがなああいう人で。

 更に、自分は養子であり、やはりド平民の間に生まれた。

 どこを切っても、高貴の文字など混じりようがない。

「賢者は一代限りだ。私には関係ない」

 成人の旅に同行したが、彼が同行したのは太陽になる気がまったくないハレで。

 自分に、輝かしい着飾った未来が待っているなんて、これっぽっちも思っていなかった。

「でも、せめて言ってくれてたら…」

 ぐじゅっと、言葉の最後がつぶれた。

「言ってたら?」

 その後に続く言葉は、きっとリリューが喜ぶものではないと感じる。

 ただ、溜め込んでいる音の中に、彼女の本質が混じっているはずだ。

 それを、彼は見ようとした。

「言ってくれてたら…」

 逃げ続ける視線。

「訪ねようなんて思わなかったのに…」

 ぐじゅっ。

 ああ。

 リリューは、思った。

 言わなくてよかった、と。
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