アリスズc

「何度も、帰ろうと思ったのに…」

 レチは、しょんぼりした声に変わった。

「最初の頃は、暑さにやられて動けなくて、ようやくおととい、思い立ってあなたのお母様においとまを言おうとしたの」

 そうしたら。

「『別れの言葉なら、うちの愚息に直接言ってやってくれ』、と」

 どういう、顔をすればよかったのだろう。

 その言葉を言っている情景は、母の姿と声で簡単に脳裏を流れた。

 彼女がこの屋敷を立ち去るということは、リリューと今生の別れをするのだと思ったのだろうか。

 そして、その想像はおそらく遠いものではない。

 レチが振り絞った勇気は、ついえかけていた。

 そのついえかけた火を、母は息子のために残してくれていたのだ。

 それがたとえ。

 別れの言葉であったとしても。

「それで…私…」

 彼女が──いや、レチが。

 レチが、次に唇に乗せる言葉は、声にされずともリリューに伝わった。

 本当に別れの言葉を言う気なのだ。

 思わず、ソファから立ち上がっていた。

 そんな彼の挙動に、びくりと彼女が動きと言葉を止める。

「レチガークアークルムム」

 リリューは、その名を綴った。

 生まれて初めて、言葉にした。

 何が起きるのか分からずに、固まっているレチは呆然と、しかしリリューを見上げている。

 使えない脳みそでも、ごくありきたりな言葉くらいなら、何とかなる。

 装飾は出来ないが、ありのままの言葉なら、何とか声に出せる。

 だから、リリューは言った。

「レチガークアークルムム…訪ねてきてくれて嬉しい」

 嬉しい時の笑みは──これでよかっただろうか。
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