アリスズc

 ヤイクから手紙をもらうことなど、これまで一度もありはしなかった。

 走り書き程度のものであれば、従者を通じてやりとりをしたことはあっても、この手紙はそれと一線を画している。

 しっかりと封をされ、同じ都に住みながら、わざわざ飛脚を介されているのだ。

 回りくどく儀式的なそれは、この手紙が重要なものであると思わされる。

 中の手紙に気をつけながら、エンチェルクはゆっくりと封を切った。

 上質の紙を中から取り出し、封筒は指で挟んだまま、その手紙を開く。

『エンチェルクイーヌルト』

 それは、宛名として書かれた自分の名。

 勿論、封筒にも書いてあった。

 しかし、手紙の一番最初にあるその名は──自分に呼びかけるもの。

 その瞬間、汗ばむ気温であるというのに、鳥肌が立っている自分に気づいた。

 転びそうに急ぐ自分の視界を、次の文字の書き出しで止めるのに、驚くほど苦労させられながら、エンチェルクは自分への文章を読んだ。

 出来るだけ速やかに、彼女自身の居をヤイクの屋敷に移せと、簡潔に書かれていた。

 走り書きで、従者に託してもいいほどの短さだ。

 なのに、これをあえて回りくどく、彼はエンチェルクに届けてきた。

 これだけのことなのに、ヤイクが言わんとしていることが、自分に伝わってくる。

 正式にウメの元を離れ、ヤイクのところに来い、と。

 そして、彼の下でこの国のために、働けと言っているのだ。

 旅が終わってからここまで、いろいろなことがあった。

 それらの多くの絡み合った事象が、いまはほとんど解かれている。

 ヤイクも、腰を据えてこれから政治の仕事に取り掛かるはずだ。

 彼は、エンチェルクをその手足にしようと思っているのだろう。

 昔。

 彼女は、ウメの手足だった。

 走れない彼女のために走る、忠実なる側仕えだったのだ。

 しかし、エンチェルクはテルと旅をした。

 彼の目指す国を、自分も目指したいとおもったのである。

 ついに、エンチェルクは──あの言葉を言う日が来たのだと、魂の奥で深く理解したのだった。
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