アリスズc

「いらっしゃい」

 つい先ほど出て行ったばかりだというのに、ウメは何の疑問もその表情には浮かべていない。

 おそらく、エンチェルクが手紙を受け取ったように、彼女もまたヤイクから手紙を受け取ったのだろう。

「手紙を読みました」

 言わなくても分かっているだろうが、話は順序だてて行う。

 仕事の報告をするかのように。

 思ったより、自分は冷静なようだ。

「東翼長邸に、私の居を移すようにと…そう書かれていました」

 ヤイクのいまの肩書きは、それ。

 宮殿の東翼全般の取り仕切りと、太陽の世継ぎを補佐する地位だ。

 それ以外に、すでに貴族の肩書きのある彼は、旅に出る前と同じように、総務府にも名を連ねている。

 どちらも掛け持ち出来るような、のんびりした職ではない。

 日々、寝る間も惜しんで、働いていることだろう。

 女の手でも借りたい──だから、エンチェルクに声がかかったのだ。

「そう」

 ウメは、何も言葉に含まなかった。

 事実をただ受け止めただけのように見えるが、そうでないことは分かっている。

 エンチェルクが言おうとしている次の言葉の、何の障害にもならないよう、思うまましゃべれるよう、穏やかな相槌を打っただけだろう。

「この国のために…働いて参ります」

 だから、彼女は言えたのだ。

 この国で一番尊敬する女性に、一番心をを捧げた女性に、まっすぐ立ち、そして見つめて言えたのである。

「ええ…いってらっしゃい」

 美しい音楽を聴いているかのように、彼女は一度静かに目を閉じて、開きながら微笑んだ。

 その瞳から、あのウメが。

 一粒、涙をこぼした。

 テイタッドレック卿と別れる時でさえ、泣かなかった彼女が──いや違う。

 ウメは、悲しくて泣くような人ではない。

 悲しい時ほど、しっかりと立とうとする人ではないか。

 だから、それは悲しい涙ではないのだ。

 ああ。

 だとしたら。

 それは。

 喜びの涙ではないか。
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