アリスズc

 ここで自分が逃げたなら──二度と、都へ戻れない気がした。

 エンチェルクは、マントの下の刀の位置を確認する。

 相手が、どれほどの情報を持っているかは分からない。

 しかし、見た目だけで言えば、エンチェルクはただの女だ。

 せいぜい、身を呈してテルを守るくらいしか出来ない。

 そう思われているならば、隙が出来ることもあるかもしれない。

 魔法を使うとは言え、必ずしも万能ではないはずだ。

 そこまで考えて、エンチェルクは自分の思考に茫然とした。

 向こうもまた、イデアメリトスだ。

 本来であれば、彼女ごときが言葉も交わせないような太陽の血統であり、自分では想像もつかない魔法を使う相手だ。

 そんな相手に、ごく自然に武で対抗する手段を考えていたのである。

 かの一族に、畏敬の念がないワケではない。

 だが、エンチェルクは余りに長く、ウメやキクの思想を浴び、テルが道場に通ってくるのを見た。

 太陽妃が土と共に働き、同胞と語り合うところを見た。

 そんな体験が続いたせいで、感覚がおかしくなったのだろうか。

 混乱しそうになる気持ちを、エンチェルクは深呼吸で止めた。

 いま、考えるべきことではない、と。

 いまは、ここを乗り切らなければならないのだ。

 ビッテは倒れ、ヤイクは逃げた。

 戦えるのは、イデアメリトスの御子と自分の二人だけ。

「エンチェルク…さがれ」

 テルは、もう一度言った。

 エンチェルクが、首を振ろうとすると。

 彼は、低めた声でこう言ったのだ。

「この距離は…刀には不利だ」

 ちらと一瞬だけ、テルの視線が自分に飛ぶ。

 ああ。

 そういうことか。

 気づかれないように、遠回りして敵との間合いを詰めろ──そう言っているのだ。

 エンチェルクは。

 身を。

 翻した。
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