アリスズc

「ありがとう…ございました」

 干し肉を目の前に、エンチェルクは小さく呟いた。

 相手は貴族だ。

 しかも、あのヤイクだ。

 面と向かって言ったところで、まともに受け答えするはずがない。

 これまで、本当にずっと必要以下の言葉しか、かわしてこなかったのだから。

 誰に言ったとも知れない言葉で、聞き流されればそれでいい。

 そう、思った。

「親父…この辺に短剣を売ってる店はないか?」

 案の定。

 聞き流された。

 隣に立っている男に、聞こえる程度の小さい呟き。

 分かっていた。

 彼は、貴族なのだから。

「短剣かい? 肉切りナイフじゃなくて?」

「そう、短剣…一本しか持ってなかったのが、なくなってしまってな」

 だが──貴族なのに、市井の人間とは当たり前のように言葉を交わし、交渉事もする。

 エンチェルクは、その矛盾に引っかかった。

「物騒なことでもあったのかい?」

「いや、大したことじゃない。獣が暴れただけだ」

 軽やかに嘘をつき、人の悪そうな笑みを浮かべる。

「そりゃ災難だったな…短剣なら、この先の鍛冶屋にあると思うぜ」

「行ってみるよ、ありがとさん」

 何の肩書もない相手にさえ。

 感謝の言葉を口にする貴族。

 もしかして。

 エンチェルクは、ある答えにたどりついてしまった。

 もしかして、自分はヤイクという男を勘違いしているのではないか、と。

 彼は、市民と会話をする。

 ということは。

 もしかして、ヤイクが話をしない相手は──エンチェルクだけなのか。

 干し肉を買いながら、彼女は誰にも聞こえないほどのため息をついた。

 そこまで、嫌われているのか、と。
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