短編集

 先輩は西二号館の四階の隅、行き止まりの廊下に据え付けられたベンチに座って本を読んでいた。窓から月光が差し込んで、先輩の横顔を照らす。形の良い鼻筋は、あの写真と変わらない。
「よう」
 私の気配を察して、先輩は本を閉じ、白い歯を見せて笑う。初めて声を掛けてきた時と同じ、飄々として掴み所のない雰囲気。
「先輩」
 私は口に馴染んだ呼称を使う。何て便利なんだろう。名前がわからなくてもこれで通じるのだから。
「こんな時間に授業じゃないよな。忘れ物か」
「違います」
「システムが混乱するから、授業の移動以外で使うなって言ったよな」
「違います」
 先輩は何かを察したように笑顔を消した。私はその眼差しから逃れ、床を見る。携帯電話を握った拳で、自分の大腿を叩く。さあ、なぞ解きを。その意を決すのだ。
 息を深く吸い、吐き出す。顔を上げ、でも目は見られず、先輩の顎を見ながらNISHI2-407の「伝承者の条件」を暗唱する。
 一、文学部の学生である。
 一、勤勉で成績優秀である。
 一、図書館を月七十時間以上利用し、小説を月十五冊以上読んでいる。
 一、部活動・サークル活動に参加していない。
 一、口が堅い。
「つまり、友達がほとんどいない夢見がちな真面目ちゃんで、理系にまるで疎い奴ってことですよね」
 先輩は何も言わない。
「それらしい言葉を使っていれば、メカニックなことに疑問を抱かない。友達がいないから、誰かに言うことはない。それは、先輩の配慮なのかも知れませんけれど。アホみたいなことを言って、伝承者が嗤われ傷つかないように」
「アホみたいなこと、ね」
「本当はNISHI2-407なんてないんです。でも私は今、正直戸惑っているけれど、信じています。神様も仏様もろくに信じていないけど」
 先輩は立ち上がり、私へ一歩、歩み寄る。腕を伸ばせば届く場所にいるこの人は、腕を伸ばしても届かないのだ。
「ご明答」
 私の頭の中を見透かしたように、
「いや、見透かせるんだよ。実際」
 もとい、私の頭の中を見透かして、先輩は私へ腕を伸ばす。私の頬に触れるように伸びてきたその右手は、私の顔を左から右へ抜けた。私の体を通り抜けた。
「こういう存在を信じている、って言いたいんだろ」
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