短編集
 あの人はどこへ行くのだろう。どこから来たのだろう。
 すれ違う人や視界の隅に捉えた人影に、そんな疑問を抱くことがある。


「小学生の時の話なんだけど」
 先輩はそうことわって語り始めた。学生ホールに並んだテーブルの隅。先輩の左後方に見えるガラスの向こうは夜の色に包まれている。
「水泳の授業が始まる前に、六年生がプール掃除をするんだ。水のないプールには一年分の泥が溜まっていて、それを取り除いて、デッキブラシでプールの底を磨くんだ。泳ぐのは苦手なんだけど、掃除は楽しかったな。泥の中にはさ、ヤゴがいたりして」
「ヤゴって何ですか」
「トンボの幼虫をヤゴって言うんだよ。そんなことも知らないのか」
 ヨウチュウ、という単語も私にとっては身近ではない。が、それを言ってはまた馬鹿にされるとわかっているので、ふうん、と相槌を打ち、仕返しをする。
「先輩。たり、って二回以上使わないといけないんですよ」
「途中で止められたから一回になったんだ」
 先輩はそこで一度、ペットボトルの水を口にした。最近発売された商品で、ボトルの潰しやすさを売りにしている。
「他にも生き物がいるんだ。ミミズとか、ゲンゴロウ、タガメ」
 やはり知らない名詞が含まれている。
「一番盛り上がって騒いだのは、ザリガニだよ。アメリカザリガニ。これは聞いたことあるだろう。その辺の小川にいる奴よりも大きいんだ。それが泥の中から出てくる」
 にわかに声をひそめた。
「外とは繋がっていないプールの泥の中から、な」
 先輩の話の意図が分からず、それが顔に出たのだろう。先輩はテーブルの上の荷物を鞄に詰めると、おもむろに腰を上げた。

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