紅朧


 ふと、仁央様の手が止まりました。
「紅朧、一つ頼まれてくれぬか」
 わたくしは顔を上げます。
「いや、よそう。お前に何かあったら大変だ」
 何でしょうか。しかし仁央様が心配してくださったので嬉しい。わたくしは再び喉を鳴らすのです。仁央様も私の頭を撫でます。

 夕方近くになって雨が止みました。ねずみ色の雲の割れ目から橙の光が差しております。あそこから、ここから。わたくしはまぶしさに目を閉じました。仁央様がくすくすとお笑いになります。そして、わたくしの体を膝から下ろし、「車を」と仰って奥へ入られてしまいました。
 どこへ行かれるのでしょう。わたくしは仁央様の後を追って、格子の前で鳴きました。
「入ってはいけないよ」
 奥から良い香りがいたします。伽羅の香り、仁央様の香りです。
 わたくしは気付きました。仁央様は女性の処へ行かれるのです。先の頼みも、きっとわたくしに言伝役のようなことをさせたかったのではないでしょうか。濡れた黒猫が男性からの恋歌を届けに参る――なんと素敵なことでしょう。わたくしの身を案じた仁央様の優しさに依って取りやめになりましたが。
 仁央様、紅朧は猫の身でございますが、仁央様をお慕い申し上げております
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