1970年の亡霊
 そこには、蒔田家の戸籍関係が謄本のコピーとともに記されてあった。

 蒔田登。昭和四十五年十一月二十五日死亡。享年二十二歳。

 蒔田登は喜多島由夫の首を介錯し、後を追うように割腹自殺をした。

 蒔田登が喜多島由夫とどういう経緯で出会ったのかは、喜多島事件後、関係者が誰一人として口を開ける事無く、事件についてのみならず、喜多島に率いられた剣の会についても多くを語らなかった為、全てが闇の中となってしまった。

 ただ、蒔田が喜多島に一番信頼されていた事は、会の発足当初から参加していた元会員からの証言で知られている。

 その蒔田登に弟が居た。それも双子の弟で、名前を典孝という。典孝は、兄の登とは道を違え剣の会とは全く無関係であった。しかし、事件が事件であったが為に世間は彼を好奇な目で見た。

 典孝は、事件後一時マスコミから追われる身となっていたが、ある日を境にぷっつりと消息が途絶えていて、それは現在にまで至る。

 その典孝の消息が、目の前の書類に書かれてあった。

 典孝は事件後、母方の祖父、高見一の養子となり高見姓になった。更に、僅か一年後には高見家から鎌ヶ谷芳郎という人物へ養子縁組に行っている。元の蒔田の戸籍へ戻らず、二度戸籍を変更すると、二度と元の蒔田へは戻れなくなる。

 彼の遍歴はこれで終わりではなかった。鎌ヶ谷典孝として数ヶ月間生活していた彼は、山口という姓に変わり、ここで下山家の末娘と縁組をした。

 彼は婿養子となり、下山典孝となったのである。

「この義理の兄貴は生きてるようだが、所在は掴めてんのか?」

「マルミツ経済研究所顧問……」

「それ、どんな会社だ?」

 三山が答える前に、河津が口を開いた。さすがに今夜は加藤も河津に食って掛かりはしなかった。

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