1970年の亡霊
 男の口から少しずつ言葉が聞けるようになった。だからといって、三山は焦ってはならないと自分に言い聞かせていた。

 手代木局長はじめ、本庁の上層部は徹底的に絞り上げろ、と言って来たが、彼女は一切の雑音に耳を貸さなかった。彼女の理解者とも言える加藤の助言すら聞こうとはしなかったのである。

 三山にしてみると、その男との時間は、尋問ではなく対話でなければならないと考えていたのだ。

 その日、三山は男が横たわるベッドの傍らで、一冊の本を開いていた。

「それは……」

 男は三山が手にしていた本の背表紙を見て、自分から話し掛けて来た。

「私は、沢山ある中でこの小説が一番好きになりました」

「一番あの方らしくない作品ではあるが……いや、本当はそういった作品が喜多島由夫の本質なのかも知れないな」

「実は、私もそんな感じを受けました。とは言っても、私は最近になって、付け焼刃的に読んだだけですけど」

「三山さん…と仰いましたよね……」

「はい」

「……私は、死をもって償わなければならない罪で問われるでしょう。それはもとより覚悟の上だ。叶うならば、自らの手で償いたかったのだが……板橋に、私の家内が住んで居ります。国家反逆の罪に問われる男の妻でいたままでは、家内に申し訳無い。一言、貴女から済まなかった、と伝えて置いてくれませんか」

「ご自分の口から直接お伝えになっては?」

「いや、この先二度と会う事は無い……会わない方が、家内の為でもあります」

 三山は、押し黙ったまま、垣崎の目を見つめた。頭から顔に掛けて巻かれた包帯を緩ますように、男は柔和な笑みを見せ、

「家内の名前は、カキザキアキコ。私は陸上……」

 彼は自分の名前と経歴を語り始めた……。


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