1970年の亡霊
垣崎は一旦部屋を出た三山が、直ぐに戻って来るもと思っていた。暫く経っても彼女の姿が扉の向こうからやって来ない。
包帯の交換で看護師がやって来た。
「あら、本が……」
滅多に話し掛けて来ない看護師が、ベッドの上に置かれた一冊の本を手に取った。
忘れて行ったんだな……
看護師がその本をベッド脇のサイドテーブルへ片付けようとした。
「読みたいので、枕元に置いて貰えませんか」
初めて垣崎から声を掛けられたからか、看護師は少し驚いたような顔を見せた。
傷口の消毒と包帯の交換を終えて看護師が出て行くと、病室は再び彼一人になった。
枕元に置かれた本にそっと手を伸ばす。まだ動かすと激痛がする。ゆっくりと痛みを堪えながら本を胸の上に乗せた。
相当読んだのであろう。背表紙の角は破れ掛けていて、今にもばらばらになってしまいそうだった。
『春雪』と草書体で書かれた表紙を指でなぞった。何だか懐かしい気持ちになって来た。
三山も言っていたが、この作品は喜多島由夫の中では珍しく純愛を描いたものであった。
一般に喜多島は、作家活動の後半が、そうだったが為に、激越な作風と思われがちだ。だが、余り知られていない初期の作品は、いずれも少年や青年の淡い恋心を描いたものが多い。
彼の作品は、その美しい文章と表現力で満ち溢れていた。そこが海外からも評価され、ノーベル文学賞の候補にも噂された所以であった。
それが、ある時期から喜多島は作風を変え、そして生き方も変えた。そんな後半の作家活動の中で書かれた『春雪』は、彼の若い頃の瑞々しさこそ薄らいではいるが、成熟した分、肌理細やかな表現と深みが感じられる作品になっていた。
垣崎は、淡く薄茶色に変色したページを捲り、慈しむかのように文字を追っていた。
包帯の交換で看護師がやって来た。
「あら、本が……」
滅多に話し掛けて来ない看護師が、ベッドの上に置かれた一冊の本を手に取った。
忘れて行ったんだな……
看護師がその本をベッド脇のサイドテーブルへ片付けようとした。
「読みたいので、枕元に置いて貰えませんか」
初めて垣崎から声を掛けられたからか、看護師は少し驚いたような顔を見せた。
傷口の消毒と包帯の交換を終えて看護師が出て行くと、病室は再び彼一人になった。
枕元に置かれた本にそっと手を伸ばす。まだ動かすと激痛がする。ゆっくりと痛みを堪えながら本を胸の上に乗せた。
相当読んだのであろう。背表紙の角は破れ掛けていて、今にもばらばらになってしまいそうだった。
『春雪』と草書体で書かれた表紙を指でなぞった。何だか懐かしい気持ちになって来た。
三山も言っていたが、この作品は喜多島由夫の中では珍しく純愛を描いたものであった。
一般に喜多島は、作家活動の後半が、そうだったが為に、激越な作風と思われがちだ。だが、余り知られていない初期の作品は、いずれも少年や青年の淡い恋心を描いたものが多い。
彼の作品は、その美しい文章と表現力で満ち溢れていた。そこが海外からも評価され、ノーベル文学賞の候補にも噂された所以であった。
それが、ある時期から喜多島は作風を変え、そして生き方も変えた。そんな後半の作家活動の中で書かれた『春雪』は、彼の若い頃の瑞々しさこそ薄らいではいるが、成熟した分、肌理細やかな表現と深みが感じられる作品になっていた。
垣崎は、淡く薄茶色に変色したページを捲り、慈しむかのように文字を追っていた。