1970年の亡霊
亡霊よ、いずこへ……
 河津はある男を追っていた。その姿は、以前の彼を知る者が見れば、変わり様に驚くであろう。肌に脂をどす黒く浮かせ、襟元が汚れたよれよれのワイシャツ姿。いつもクリーニングされた皺一つ無い背広が、今は垢でてらてらとし、皺だらけだ。見るからに風呂にも入っていない事が判る。

 下山典孝という人物を調べて行けば行く程、謎だらけで実体がまるで掴めなかった。

 三山が調べ上げた履歴を元に、河津は下山典孝の身辺を探った。

 謎だらけで実体が掴めないと感じた一番の理由は、下山典孝が実社会の中で殆ど姿を見せていない事であった。

 名前自体は、丸光グループ関連を調べて行くと、そここに出て来る。だが、下山典孝を直接見たという人間が極端に少ないのだ。それだけでは無い。近年の写真すら見当たらないのである。普通、企業のトップに近くなればなるだけ、その姿は公に出て来るものだ。それが全くと言っていい位に無い。

 河津はそこに後ろ暗い秘匿性を感じ取った。

 下山典孝を追う……

 全てをそれに向けた。

 元々、公安部それも外事課の捜査官というものは、一般の捜査官とは異なり秘密裏に行動する事が多い。それが身体に、公安捜査官の色として染み付いている。

 垣崎剛史を拘束した後、河津は単独捜査に走った。

 何故彼がそういう行動に出たのか。三山が加藤に語ったように、河津は余りそういった行動を取るようなタイプでは無かった。官僚的色彩を強く持った彼に、ドブ板を這いずり回る姿は想像し難い。自分でもそういった事を嫌うところがあったのだが、彼の中でそういったものが全て崩れ落ちた。

 要因は幾つかあった。一つは三山であったが、本人にはそれを自覚するだけの意識が無い。彼女が向ける加藤刑事への思慕をはっきりと感じた時、彼の中で堰き止められていたものが一気に奔流となった。そこへ、柏原の死が重なった。恐らく三山の事が無ければ、柏原の死も、こうまで河津を突き動かしはしなかったであろう。三山への想いが通じない事がはっきりし、それが触媒となって柏原の死を劇的なものと受け止めてしまったのかも知れない。

 柏原の無念を晴らす……

 その一念だけが、今の河津のエネルギーであった。そのエネルギーは、大きな危険を孕んでいる。通常では携行しない拳銃がその象徴であった。

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