1970年の亡霊
そして、陽は沈みまた昇る……
 加藤は有楽町から歩く道筋を選んだ。地下鉄を利用すれば、霞ヶ関から本庁が直ぐなのだが、何と無く気分的に歩きたいという気持ちになった。

 日比谷口で降りた加藤は、周囲の風景を噛み締めるかのように見渡していた。

 正面に皇居が見えた。これをずっと右手に行けば、河津が殉職した現場だ。

 その後の調べでも、彼が何故そこへ行ったのかは判らなかった。元来秘密裏に捜査をしていた公安部の捜査員だったから、きっとその時も、秘密捜査か何かであったのだろうという事で片付けられた。

 ただ、丸光重工名誉会長岩根晋が、元自衛官岡田幸則と要良雄に襲撃された際、身を挺して護ろうとしていたらしい。事実、要良雄は河津によって射殺され、河津自身は岡田幸則によって殉職した。

 自衛隊内の一部過激派によるクーデター計画は、寸前のところで食い止められた。

 強制捜査の一報が入るや否や、マスコミは連日一面トップで報道していたが、十日も経つと潮が引くように本庁への取材が減った。事件の渦中に居た加藤などは、散々事件記者達に追い回されたが、最近は見向きもされない。

 ほんと、熱し易く冷め易い国民性だよな……

 桜田門の交差点に佇みながら、そんな事を考えていた。

 実際には事件の事後処理が山積みになっていて、とても冷めていられるような状況ではなかった。

 事件の真相は大よそ解明出来た。しかし、事件の真相に近いとみられた人物の大半が、自殺や射殺されてしまった事で、状況証拠で積み重ねて行くしかなかった。

 予備自衛官を含めた自衛隊内部で非公然活動を行なっていた『つるぎ会』の会員達が、騒乱罪及び騒乱準備罪等でその後多くの逮捕者を出した。だが、彼等はただ将棋の駒としてしか役割を持たされて居らず、事の真相は結局のところ、いまだ大倉病院旧館に拘束している垣崎剛史の全面自供に頼るしかなかった。

 クーデター計画と政界内の関わりを解き明かす人物として期待されていた防衛省政務次官曽根崎構造の自殺は、警察当局にとって、大きな痛手となった。任意同行を求めた際に、その懸念をきちんと想定して置くべきだったとの声が、本庁内で上がっていた。担当していた三山はその件で翌日、手代木局長に進退伺いを出していた。



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