1970年の亡霊
 洪自身は、李が日本国内で行っていた活動を具体的には知らない。

 基本的に、どの国の情報員や工作員も、同僚がどういった役割で何をしているかは詳しく知らないものだ。

 と言うより、知らされないシステムになっている。

 時には、自分の任務の内容すら知らされずに活動する事が多々ある。

 これは、潜入国側に拘束された場合の予防策として、スパイの世界では常識の範囲なのである。

 同僚が何をしているのか、自分の任務とどう繋がっているのか、それらを知らなければ、どんなに厳しい尋問にあっても、知らぬ存ぜぬを通せるからだ。

 李の消息が不明になった時点で、本国からは一応公安外事課に注意をするようにとの指示があったが、そういった事もあって、洪は気にも留めていなかった。

 これが、韓国やアメリカでの話なら別である。

 日本という国は、情報界に於いて世界一堂々とスパイ活動が出来る稀有な国なのだ。

 公安外事課という警察組織が、外国のスパイ活動に目を光らせてはいるが、洪の目に映る彼等は、自国の秘密警察に比べれば、まるで子供であった。

 何度か尾行がついた事もあったが、三十分もあれば簡単に振り切る事が出来た。

 だから、この時洪は自分の身に危険が迫っていたなどとは、夢にも思っていなかった。

 洪に与えられた新しい任務は、工作員潜入用アジトを新たに設営する事であった。

 その夜、設営したばかりのアジトへ通信機等の機材を運び込んでいた。

 洪はすっかり周囲に溶け込み、北朝鮮の工作員などとは誰も気付かない自然さで日本人に成り切っていた。

 その洪を取り囲むかのように、一定の距離を保ちながら、数人の男達が暗い視線を送っていた。

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