―you―
「優ちゃん」
 部屋の前に、奈緒さんがいた。びっくりした。
「…どうしたんですか?」
 奈緒さんは私の前に箱を出す。中からシナモンが香る。
「アップルパイなんだけど、一緒に食べない?」
「あ…」
 返事をする前に、お腹が鳴った。どうせ吐くんだろうけど。

 鍵を開けて、部屋の明かりをつける。奈緒さんにスリッパを出して、ソファーに案内した。
「紅茶、ですね」
「そうね」
 軽く手を洗い、やかんに水を入れてコンロにかける。その間に、包丁、取り皿二枚、フォークを二つ。カップとティーポットに、湯沸かし器の一番熱いお湯を入れた。
 お湯が沸くのを待ちながら、念入りに手を洗う。うがいをして、一度奈緒さんのところへ。

「料理上手な人って、本当、憧れます」
 返事がない。
「奈緒さん?」
「優ちゃん」
 奈緒さんは部屋を物色していた。クローゼットやチェストが開けられている。
「何…」
「…可愛い下着ね。これで千尋を誘ったわけ」
「え?」
「解ってるのよ」
 奈緒さんのギラギラした目が恐い。白雪姫は魔女にこうアドバイスされた。男の人が好きなのはアップルパイよ。
「あなたが千尋を奪った」
 二の句が継げない。ふふ、と奈緒さんが笑う。
「否定しないのね」
「そんな、私は…」
「私。色気付いたつもり?」
「違います」
「じゃあ千尋は?」
「千尋さんは」
 好きです。好き…だから。嫌わないで。奈緒さんも俺を嫌わないで。
 やかんの高い音。沸いた。
 コンロの火を消す。音は頼りなく萎み、湯気が上がった。お茶をいれる。


 もう吐くモノなんてないのに、吐き気がしてトイレに駆け込む。肩で息をして、何とか落ち着こうとする。ポケットに入っていた携帯電話を開いて、リダイアル、通話。耳に当てて待つ。

「…優?」
「助けて…」

 奈緒さんの足音。俺は電話を切った。


「優ちゃん」

 声が、低い。恐い。

「…お客さんよ」
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