雨音色
とんとん。
1時間弱前と同じノック音だ。
「はい」
彼は読んでいた、独逸語で書かれた刑法の本をテーブルの上に置いて、
慌ててドアを開けた。
「お支度は完了しましたか?」
「は、はい」
着慣れないタキシードの着心地が悪いのか、
彼は両肩をぐる、と回す仕草を繰り返した。
「それでは、ご案内申し上げます。
手袋をお忘れなさらないよう、お気を付けくださいませ」
藤木は慌てて手袋を取りに部屋へ戻り、
男の後をゆっくりと歩いて行った。
「こちらでございます」
目の前には、大きい扉が、待ち構えるようにそびえていた。
「それでは、お楽しみくださいませ」
男はそう言って笑った。
晩さん会など、藤木にとってみればほとんど初めてに近い経験だった。
確かに、学会終了後には学者同士で食事会が開かれたりすることもあるが、
タキシードに身を包み、
政府要人や貴族の出席するような晩さん会は、初めてかもしれない。
高鳴る鼓動を落ち着かせるよう、藤木は大きく息を吸うと、
開かれたドアの中へ、足を踏み入れた。