ますかれーど
リンリンリンと、夕飯を知らせるベルが鳴った。

いつもなら誰かが呼びに来てくれるのに、わざわざベルを鳴らしたのは、きっと僕への気遣いだ。

ダイニングの大きなテーブルには、いつも通り2人分だけの夕飯。


「兄さん‥」

「お待たせ。食べよっか、千秋」

「あ‥うん」

「「いただきます」」


かぼちゃは被るもんだって言って、昔から食べない千秋。

こうやって小鉢を僕の方へそっと寄せてくることも、離れてしまえば、もう‥ないんだよね。


離れたって、会えなくなる訳じゃない。

ただ家が違うだけ。
少し遠くなるだけ。


……それだけ。



「兄さん‥今、何を考えてる?」

「ん?特に何も?」

「嘘だね。兄さん今、口に入れたの何だったか知ってる?」


よく味わって噛んでみれば、それはーー‥


「ニンジンだよ?兄さんが、ニンジン食べてるんだよ?」

「ふふっ。別に、すごく嫌いってワケじゃないんだよ」

「兄さんはいつも、ニンジンをまとめて一気に食べる!でも、今日は違う!」

「ははっ」


千秋が言いたい事はよく解る。

僕は今、自主的に父の方に残ろうと考えている。
それは、父の弱い姿を見たからとかそんなんじゃなくて。

そんなんじゃなくて……。


「兄さん、母さんは泣いてたよ‥」

「え?」

「ごめんねっごめんねって」


父さんだって、泣いてた。


「どう考えても、あいつが悪いだろ?」


父さんは、後悔してた。


「まさか、母さんを裏切るなんて‥ないよね?」


強い、強い、大きな紺色の眼差し。

千秋の存在を無かったかのようにしてきた父を、千秋が恨むのは仕方がない。

母の元へ行って正解だ。


じゃあ、僕は?



強いられてきた苦痛は確かに大きい。

でもそれは、僕や家族を想ってのことなんじゃないのかな?

だとしたら、今ここで父から全てを奪えば、父は崩れてしまうだろう。

だからせめて、僕だけでも。

そう思うのは、ただの利己主義なのかな?


「ごちそうさま」


何か言いたそうな千秋を残して、僕は広い廊下をゆっくりと歩いた。


藍色の絨毯は、まるで僕のココロのように曖昧でーー‥


すると、月明かりが差し込む大きな窓を、ただじっと眺めている影が見えた。

その影が、ふっとこちらを向いて微笑みかける。


「母さん‥」






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