初恋の向こう側
「だからね佐伯君?」
「うん」
「もう会えない。
会うだけじゃなくて電話で話すこともメールもできない。そんな時間ないの。わたしにはピアノが……ピアノの方が大事だから」
「……」
「だから佐伯君の彼女は今日でおしまい!
じゃないとあたしも集中できないし、佐伯君だって会えない彼女に縛られてるの可哀相だもんね」
「千尋…」
「なんだか一方的でごめんね? これが、わたしのもう一つのお願いごと。
今までとっても楽しかったし、うれしかった……それから今日も来てくれて本当にありがとう」
声が出なかった。
慌てて言葉を探すが、なんて返したらいいのか何も浮かばなくて。
最後は涙声になりそうなのを必死に堪えてる千尋の、その小さな横顔をただ見つめるしかできなかった。
俺はなんてズルい男なんだ。卑怯すぎる。
自分から伝えなきゃいけないことを彼女に代弁させている。
ソファから立ち上がった千尋に続き、腰を浮かせかけた俺を彼女が止めた。
「待って! 佐伯君はそのままでいて。
これで最後なの。サヨナラするの。だからそのまま見送って?
……バイバイ」
履き慣れないヒールの高い靴で駆けながら、赤いドレスの後ろ姿が小さくなって、そして視界から姿を消した。