妖恋華
「…ずっと落ち込んでいるわけにはいかない、か…。」
今朝、二人に告げた言葉。
自分は落ち込んでいるわけにはいかない。
現状を打破するためにも、前向きな姿勢でいなければ――。
電話のことも虎太郎たちに聞けばいい―――
村のことも調べればいい―――
なるべく後ろ向きなことは考えないように、と乙姫は自分に言い聞かせた。
「頑張ってみよう……!」
そう意気込み、めいいっぱい伸びをした。
その瞬間、何かに見られているような視線を感じ、ばっと周りを見渡してみる。
が、何が居るわけでも、何があるわけでもなく、そこにはただ虚空が拡がるだけだった。
きっと勘違いだろう――そう思ったが、無性に此処から離れたい衝動に駆られたのは事実。
寒気立つ身体を摩りながら乙姫は足早に家に戻ったのだった。
そんな乙姫の後ろ姿を見つめる一つの影―――。
今が夜であれば、その姿を確認することすら困難だろうと思われる、闇を溶かしたような漆黒の翼を持つ一羽の鴉。
その異様な紅の瞳はただ静かに木の枝から乙姫の背を見つめている。
その瞳を通して、その景色を見ている者が居た。
「鈍い…というわけではないか……。」
鴉と同じ色に瞳を彩らせる男はそう呟き、手に持つカップの珈琲を一口、口に含んだ。
その様は優雅であり、誰かを監視していたなど誰が思おうか―――。
そんな彼を呼ぶ声が数メートル離れたところからしてきた。
「鬼瀬先生!昨日の課題を提出したいという生徒が来てますよ…!」
それを聞くや否や、男は先程まであった妖しい雰囲気など感じさせない、爽やかと言うに等しい笑顔を浮かべ、呼ばれた方向へ足を向けたのだった。