楔

　わかってた。
　彼の心に私がいないことも、もう終わりが近いことも。
　うすうすだけど、気づいてた。
　いつかこんな日が来ることを。
　でも、私は彼をまだ愛してるの。失いたくない。
　彼は優しい。約束を破れるような人じゃない。
　だから、約束で彼の心をつなぎ止めたかった。約束と言う名の楔で。
　でも、知ってた。
　心を繋ぎ止められるものは、約束じゃないことも。
　きっと、約束は自分への気休めだということも。
「…ううん。いいの…。タクに無理させたくないから」
「約束守れなくて、ごめんな」
タクは、本当に優しい。
　でも今は、その優しさが痛くて痛くて、泣いてしまいそう。
「ねぇ、タク最後に1つ、願い事聞いてくれる？」
「なに？」
抱きしめて欲しい。キスをして欲しい。彼の子供みたいな髪を撫でたい。
　もうケンカすることも、もうやきもち焼くことも、もう顔を見ることも出来ないのなら。
　もう会いたくなっても、もう息が出来なくても、あなたを呼ばないと約束するから。
　でも、そんな愛のないものは意味がない。
　彼の事を嫌いになるくらいなら、このまま二人で夜になって、消えてしまいたい。
　そんなこと、誰も望んでいない。もちろん、私も含めて。
　だからせめて。
「名前、呼んでくれる？」
あと1秒だけでも、彼といたい。
　彼と同じ空気を吸っていたい。
　彼と同じ時間を過ごしていたい。
「ユイ」
嬉しい気持ちと、愛しい気持ちと、悲しい気持ちと、切ない気持ちと、いろんな気持ちが混ぜ合わされた、変な気持ちが私の心の中に溢れた。
　上手く笑えない顔を、笑顔に歪ませる。
「ありがと」
彼との記憶が頭を駆け巡る。
　最初で最後だった、あのキス。今思い出すと、幸せすぎて胸が痛くて、涙が溢れてきた。　駅に電車が入ってきたみたい。人の降りてくる音、話し声が聞こえてきた。
「電車、来たみたいね」
「うん」
「さようなら」
「さよなら」
もう二度と会わないと、私達は心に誓い合った。
　少しずつ、少しずつ、彼の背中が小さくなっていく。
　もう横で笑うことも、もう横で眠ることも、もう名前呼ぶことも出来なくなるんだね。