キミが刀を紅くした
その疑問の一つも解決する事なく、椿は足を止めた。俺は一瞬椿が俺を騙して大人たちのいる場所へ連れてきたのかと思ったがそうではないらしい。野太い声が正面の部屋から聞こえてくる。それと女たちの声も。
昼間なのに、と思った矢先に椿が静かにひっそりとした声を出した。
「あの部屋にいらっしゃるのがそのお偉方だとお聞きしました」
「そう、ありがとう」
「あの」
椿がふと俯き加減で俺のボロい着物の裾を掴んだ。俺たちに身長と金さえあれば吉原の遊女と客みたいな雰囲気だ。俺は少しだけ振り返って出来るだけ優しい声で要件を問う。すると椿は深呼吸をしてから言葉を発した。
「出来ればその、お名前をお教えいただけませんか?」
「名前?」
「差し出がましいとは思いますが、その、出来れば」
今日は名前を良く聞かれる日だな。もしかすると俺はこのまま死んでしまうんじゃないだろうか。その予兆なのかも知れない。名前のない餓鬼がこんな風に何度も問われるなんて、何だか、くすぐったい。
だが俺は首を振った。椿は勘違いをした様で顔を真っ赤にして裾を掴んでいた手をぱっと放す。俺はその手を掴んだ。
「あ、あの」
「教えたいのは山々なんだけど、俺、名前がないんだ」
女の子の一人くらい放っておけば良いのだけど。俺は椿のひたむきな何かに心を動かされていた。椿が俺の裾から手を放した時、なぜか彼女を守ってやらなきゃいけないと思ってしまったのだ。つい数分前に出会っただけの女なのに。恐ろしい。
吉原の男たちはこうして落ちていくのだろうかと他人事の様に考えてから、俺は真剣に言葉を選んだ。
「俺は今からあの部屋に行ってちょっと問題を起こしてしまうかも知れない。だけどもし何ともなしに帰れたら椿、キミを探しに行くよ。俺の名前を教えに行く。その頃には俺も自分の名前を欲しがってるかも知れないし。それでいい?」
「……はい。でも、あの」
「なに?」
「私はすぐに吉原を出てしまうかも知れませんので、お待ち出来るかどうか」
「待たなくてもいいよ。探しに行く。俺の声を覚えておいて」
「では、この、この簪をお持ちください」
椿は自分が刺していた真紅の簪を俺に手渡した。はらりと黒髪が肩まで垂れる。あげていた前髪も一緒に落ちてきたものだからまるで人が変わった様だった。美しいと言うより何より、麗しい。この女が大人になったら吉原は安泰だろう。
「キレイな髪だ」
「いえ」
「預かるよ。きっと返しに行く」
椿の返事を聞かずに俺は簪を受け取ると懐にそれを忍ばせた。そして奥の部屋へ、声のする方へと足を向ける。足は震えていた。だけど進まなきゃいけなかった。
俺の一生に花を添える為にも。