キミが刀を紅くした
翌日。朝早くにその人は現れた。
静かな所作で戸を開けて旅館を見渡すと、ふう、と大きな息を吐いて番台の私を見る。その目は――恐ろしく冷めきっていた。久しぶりに私は殺されるんじゃないかと錯覚したくらいに。虚ろな目が瞬きをする度に私は生唾を飲み込んだ。
「あんたが中村?」
だがその声に敵意は全くない。私は我に返って番台から降り、玄関前で彼にひれ伏した。お待ちしておりました、と言うつもりが、私はきっと本能で察していたのだろう。
この人が私の運命を狂わせると。
「不束者ですがどうぞ」
「俺と夫婦にでもなる気かよ」
「あ、いえ……申し訳ありません」
「あんたみたいなきれいな女はごめんだぜ」
けらけらと笑いだした彼を見上げて、私はぽかんと口を開けた。この人は一体幾つの顔を持っているのだろうと呆気に取られた。
目と口が語るものがあまりに違う。
「今夜一泊。服部が口添えしてるはずだが」
「はい。承っております、大和屋さま」
「あぁ」
「二階の桜の間をご用意しております」
「椿は?」
「え?」
「椿の間」
「――空いておりますが」
「そこにしてくれ。約束がある」
彼は口元に怪しげな笑みを浮かべる。
「あんた口は堅いか?」
「饒舌だとは言われますが、言うなと言われた事は命を絶しても口には致しません」
私は今試されているのだと悟った。
この旅館はきっと住処になる。それはもう私が何と言おうとも決定しているのだろう。だから私が選ぶのはただ一つだけだ。知らずに旅館を貸し渡すか、荷担するかの二択。
「そうか。信じるぜ、その言葉」
「お好きになさって下さいませ」
「話が早い女だ」
彼は懐から宿泊一夜分の小判と咲ききった椿の花を私に渡した。葉も茎もない、その花はまるで今にも枯れてしまいそうだった。
「あんたは赤がよく似合うな。特に深紅が」
「そうでしょうか」
「だから簪も赤なんだろ? 違うのか」
「――これは」
「わざわざ話さなくていい。今のところお前の思い出には興味がないんでな」
荷物も持たずにやってきて、彼は二階への階段を勝手にのぼりだす。そして途中、私を振り替えって微笑むような仕草をした。
「服部と慶喜さんは後で来る。それから中村椿、お前がよければ共に部屋に入ってこい。俺たちは紅椿の話をする。興味があれば、な」
「紅椿、ですか?」
「簡単に言えば暗殺組織だ。幕府に仇をなす人間を悪役になって討ち滅ぼす」
――この人は正義なのだろうか?
「って言う名目のただの世荒しだが」
「そのような事、なぜ私に?」
「お前は口が堅いって言ったからな。協力者になろうがそうじゃなかろうが口外する事はないと思った――いや、信じたんだよ」
「しん、じた?」
「俺はあんたを信じたぜ。あんたはどうする?」
私は彼に深く頭を下げ、小さく呟いた。
「後程、伺わせていただきます」
私の決意が正しいのかは知らない。だが今彼の事を信じないと言えば、私すごく卑怯者になるような気がしたのだ。
俺はあんたを信じた。
なのにあんたは俺を信じないのか?
あの言葉の裏にはそれがある。私はそれに気付いてしまったから半分恐怖を感じながら頭を床にすり付けたのだ。もし信じないと答えれば私はどうなるか分からないのだから。
「おう。じゃあ後でな、中村」
軽快なリズムで階段を上っていく彼を見ながら私はゆっくりと息を吐いた。行く先も見えない未来を静かに案じながら――否。
楽しみながら。
(02:狙われた心 終)