キミが刀を紅くした
目が覚めたのは夕刻だった。俺は目を擦り花簪に聞き耳を立てる。椿はまだ慌ただしく働いている様子だった。俺はふと手裏剣を投げた事を思い出して玄関に回る。
主の所へ行く前に言わなければ。
「椿」
玄関先で名前を呼んで見た。椿は何だか放っておけない人だから出来る事なら平和に暮らして欲しいと思う。もしこの扉が俺の一声だけで開いたなら俺は彼女に告げよう。
一言ここから逃げろと。
「半助さん」
椿は笑顔で俺を出迎えた。椿の顔を見た途端に妙な罪悪感が俺を襲い始める。俺はいつからこんなに情緒不安定になったのだろうかとため息が出た。俺は言葉を考える。
「さっきはごめん。お前を殺そうとした」
「あ」
「主の命令だ。他意はない」
「いいんです。殺されかけるのは慣れてますから。それより半助さんは慶喜さまのお忍だったのですね。驚きました」
笑顔でそう言う椿はどこか楽しそうだった。俺はますます胸を締め付けられる。このまま椿が此処にいて良いものか。主に使われるだけの俺とは違う。たが椿は。
「うん」
「そうだ、お茶を入れます半助さん。旅館は人をおもてなす場所ですから。どうぞ」
「違う、椿」
茶なんていらない。俺は咄嗟に椿の手首を掴んで彼女を止めた。唖然とした様な顔をしてその真ん丸い瞳が俺を捉える。この女は。
どうしてこうも胸が痛い。
「逃げろ」
「え?」
「お前は居場所を手に入れたんじゃない。主に支配されただけだ。狙われないんじゃなくて逃げられなくなっただけだ、椿」
俺は早口にそう言ってぐっと椿の手を引いた。だが彼女は悲しそうに首を振るだけ。
俺は良いんだ。忍だしどれだけ汚い手を使われようと酷い仕打ちをされようとも慣れている。だが俺は椿の泣き顔を見たくない。だからこの先、主に良いように使われて捨てられるだけの駒になってしまうのなら。先に逃げていて欲しいと、そう願うのだ。
「どうしてそんな事を言うんですか? 貴方は慶喜さまの忍、もし私があの御方に捕らえられる様な形になったとしても……私を逃がそうなどとしてはいけない人でしょう」
「お前は初めて俺を頼りにした奴だ」
「と、言うと?」
「京まで連れて行けと頼んだろ。俺は連れて行かなかったがお前は俺を頼った。ただそれが嬉しかったんだ。だから俺は椿を助けたい。このままじゃお前は」
辛辣な想いが胸を締め付ける。俺は椿を助けたい一心なのに、子供のあまりそれが出来ない。力がないあまりにそれが出来ない。どうすれば椿は俺をまた頼ってくれるのだ。
「殺されるぞ、椿」
そう呟いた時、俺は殺気を感じて椿の手を離した。俺は忍なのに辺りを憚らなかった。誰かに聞かれた。殺される。どうしたら。
「待って! 半助さん!」
椿を巻き込んではいけないと思って俺はその場を離れた。椿の声が俺の背中を押したようなそんな気分になる。大丈夫だ。俺が。
ふとしばらく行った所で足を止めた。後ろから抜刀する音が聞こえる。この街中で刀を抜いてどうする気だろうか。否、この街中を堂々と走り抜けようとする忍も馬鹿か。
「俺はね。自分以外は駒だと思っている。お前も中村椿も母や父もそうだ。全ては俺が世界を変えるための捨て駒に過ぎない」
寒気がした。