キミが刀を紅くした
歩いていると、立派とは言えないかもしれないが歴史のありそうな旅館が見えてきた。名は花簪。中村椿と言う若女将がいると聞いたが、外からは中の様子が見えないので確認は出来なかった。
その裏手にある大屋敷が、どうやら今夜紅椿に狙われている名前も知らない旦那の屋敷らしい。
見た感じ、ここらは懐が豊かな人の住処が集まっているようだ。周りは大きな屋敷だらけである。
「あの、何か御用で?」
たいそう綺麗な声が聞こえたので俺は振り返った。傍から見れば不審な動きをしていたかもしれない、と反省した俺は怪しまれない様にとりあえず口を開いた。
「あぁ、えぇっと、瀬川と申します。実はこの旅館の裏手にお住まいの御仁を、探してまして」
「これはこれはご丁寧に。私は花簪の女将、中村椿と申します」
美しいと言うよりは可愛らしい人である。だが声は聞いたことのないくらい美しいかった。透明な声とは彼女の事を言うはずだ。
彼女は続ける。
「裏手と申しますと、志藤様のお屋敷ですね。彼は居りませんよ。しばらく留守になさってます」
「あぁ、そうでしたか。それはどうも。お手数をおかけして」
「いいえ」
俺は頭を下げてその場を去る事にした。紅椿が来ると知っているからか分からないが、急に居たたまれない気持ちになったのだ。
女将、中村椿はしばらく俺を見送ってくれていたよぅだ。それは旅館に勤める癖やもしれない。だが俺は振り返らなかった。
今夜行く場所の検討はついた。志藤と言う人が今夜紅椿に狙われていると言う事も分かった。彼が何をした人なのかは知らないが、名の通った悪人でない事は確かである。攘夷志士でもないらしい。
俺は一度自宅へ戻る事にした。
まだ空が明るいうちに座敷に座り深呼吸をする。今夜限りの命にならない様にと毎度の事ながら父と病死した母に祈った。
気休めだと分かっていても、稽古前のこればかりは止める事が出来ない。俺の癖、だろうか。