隻眼金魚~きみがくれた祈りのキス~
 自動販売機の前で缶コーヒーを買ったら何だか胸がいっぱいになってしまって、自分のを買えなかったんだよね。

「このへん来たら、詩絵里ちゃんのアパート近くじゃん。電話してみた」

 後部座席に書類のファイルが置いてあって、あと鞄が1つ。ああ、仕事してるんだな。そして、スーツ姿が新鮮。蓮もたまに見るけど。

「素敵ですね。スーツ着てると仕事モードって感じ」

「いま、サボってるけどね」

 缶コーヒーに口を付けながら、にやっと笑った。外回りだから自由なのかも。車内で少しだけ話をして、海に行く約束を確認したりして。

「あ、そろそろ戻らなきゃ。ごめん、俺の都合で呼び出しといて」

「大丈夫。あたしももう帰るだけだし」

「夕飯でもごちそうしたいところだけど、今晩遅くなりそうだから……」

「いいですよ。気にしないで。お仕事がんばってください」

 そう言い、車を降りようと思った。腰を浮かせた時に、手を掴まれた。

 車から降りられなくなったので「……あの」と言ってみる。手を握られたくらいで赤くなったりドキドキしたり、まだするんだ。あたし。だって、びっくりしたよ。ミナトさんは真っ直ぐ正面を見ていた。笑ってもいないし、怒ってる様子でもなくて。なんだろう。何を考えているのだろう。

 午後の、ゆるい時間が流れる。車が少ない、平日の15時。歩いてる人もそんなに居ない。冬のこの時間だと、もう日差しが夕方の色をしてくる。
 その空気と、ミナトさんの温かくて大きな手が、あたしを掴んでしまっていた。

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