拝啓、親愛なる眠り姫へ
 “俺”はどうしたら良いのだろう。そもそも、何かをすべきなのだろうか。それ以前にどうかしたいと思うのだろうか。

今まで何も考えて来なかった訳でもない。ただ頭を掠めて巡らせてみたことがあれど、結局は現状維持を貫いて惰性に身を任せていた。

 言ってしまえば楽であり、不変に安心を覚えていた。俺にとって変化は畏怖の対象、細やかなイレギュラーが取り返しのつかない喪失に繋がりかねない。

 なのに、どうしてなのか。

俺は変わらない、変わりたくもない。確固とした意思を添えて、そう答えるはずだったのに。

 俺が返せたのは単なる沈黙でしかなかった。「俺は…」の続きを紡げずに黙り込む俺に、端から答えを期待していなかったのか。コーラを飲み干し、穏やかな笑みで静かに告げた。

「俺は、行くよ」

 別れ際、「またな」と軽く手を振る奴の姿は、あたかもまた明日からも学校で顔を合わせる中学時代の頃のようだった。

「ああ、またな」

 それでいて俺もまた、これから数年は会わないかもしれないというのに簡素な言葉で再会を誓う。

 振り返らずに歩み去る後ろ姿が眩しく見えるのは、アスファルトの反射光のせいだけではないだろう。

あいつは光に向かい、ならば俺は? 俺は何を思うのか、何処へ向かうのか。このまま何も身動きをとれないでいるのか。

 その答えは未だに見つかっていない。それでも俺は今、ここにいる。まったく、我ながら何をやっているのだろう。

まさかまたここに来るとは思わなかったのに。かつて通っていた高校の校門前、校舎を見上げながら今更自問したのだった。

いっそ来るまいとさえ誓っていた因縁の地。それでも足は迷いながらもここに向かったのだから、紛れもなく先日のあいつとの再会が関係していることだろう。

 ひとまず事前のアポイント無しで校舎に立ち入るのは難しいと察しはついていた。このご時世いくら卒業生といえど、セキュリティの問題やら学校側の都合やらで快くは受け入れづらいとも。

当時の生徒として、また教育実習時代に世話になった教員は誰一人残っていなかった。顔見知りがいれば話はスムーズだろうが、半分無理を承知で訪問を申し出た。

 だからこそすんなりと許可が降りたのは、一周半回って意外だった。まあ、全教室には鍵がかかってるし、君は真面目そうな感じだし。卒業生に悪人は無し、そう信じているかのような電話口の男性教諭は、からからと笑っていた。

 久々の校舎は懐かしいながらも新鮮だった。帰る時に声をかけてくれ、と職員室に戻って行った教諭と別れると一通り校内を歩き回った。

教室に図書室に中庭と、目に見えるものはあの頃とは変わっていながらも高校自体から漂う穏やかな雰囲気や匂いはそのままなのだと何度も足を止めた。

しかし今日じゃなかったら。もっと感慨深く当時を思い返したことだろうが、今回はそればかりではない。踏み出す足は階を上がることに重く、それなのに何かに追われているかのごとく足早に先へと急ぐ。

 辿り着いた扉の前で深呼吸を数回、ドアノブを握ろうとする手は躊躇いながら空を切る。グッと強く拳を握り、ほどいた掌がようやくノブを回した時、我ながら呆れ果てた息が漏れた。

 “これ”が無ければ開かないというのに。

 首から下げていた“それ“を外し、鍵穴に差し込んで捻ればカチリと解錠の音。どれだけ緊張してるんだよ、と自嘲する冷静さはまだ残っているらしい。

再び息を深く吸い込んで吐き出した所で、ギイッと扉を前に押し出して一歩を踏み出せば、外気が肺へと流れ込む。

 真っ直ぐ進んで5歩目で立ち止まり、前を見据える。

「…久しぶり、だな」

 自分の声だと認識するのに数秒もかかった。それほどまでに蚊の鳴くように震えて弱々しく、すっかり色褪せたアスファルトに落下していった言葉には情けなさしか張り付けようがない。

唇がやけに乾く。言葉に躊躇い、空しい僅かな唇の上下の動きにさえ違和感がある。唇をそっと舐めて息を飲み込み、俯きかけた目線をまた持ち上げて固定する。

「遅くなって、悪かった。…珠結」
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