リムレスの魚
第一章・egg
プールの匂いに似ている、と魚住 遥 (うおずみ はるか) はぼんやりと思った。
リノリウムの床は冷たくて、白い壁はすこし目に痛い。鼻につく消毒液の匂いには、あたたかみなどは微塵もなかった。
「どうしますか」
何かを書き込みながら、医者は低い声でつぶやいた。カルテから目線も上げず、ひどく事務的な声だった。
なんだかそれが可笑しくて、ふっ、と笑い声が漏れてしまう。急いで口をつぐんだが、医者がそれを気にすることはなかった。
「決断は早いほうが…」
「産みます」
迷いはなかった。
「ご家族との話し合いは?」
「親はいません。天涯孤独です。婚約者と、法的な保護者には許可を得ています。」
半分は、嘘だった。こんなときなのに自分は平然と嘘をつくことができる。
まだ実感すら涌かないのに、“それ”を無くす気分にはなれなかった。
「婚約者の彼を、連れてきたほうがいいですか?」
「今のところは君だけで結構」
「わかりました」
「来週また来てください」
「はい」
両方の口角を上げて、にっこりと、笑う。
「土曜日に、また来ます」
恐ろしいほど冷静だった。
もっと動揺したり、泣きわめいたりするものだと思っていた。
遥は椅子から立ち上がると、静かにスライド式のドアを開けた。はい、次の方どうぞー。背後から医者の声が響いた。
なんて投げやりな声なんだろう。
それは、この病院の受付や看護師たちにも云えることだった。
この病院を選んで、正解だった。
お店で一番苦いコーヒーを頼むと、ウエイターは満面の笑みを向けてくれた。爽やかな笑顔だった。
彼と話したことはないが、そこはよく来る喫茶店だ。駅から徒歩二分の立地だが隠れ家のように入口が隠れていて、そこでは自分達以外の若い客は見たことがない。
秘密をもつ人間同士には、うってつけの店だった。
遥は迷うことなくいつもの隅のテーブル席に座った。木製のテーブルは年季が入っていて飴色に輝いていた。きちんと手入れされているぬくもりがある。それを一撫でして、ふっと息を吐くと、バッグからそっと写真を取り出してそれを眺めた。