ヒロシマ1945 綾美とまな美
鉄筋コンクリートの建物内にいた者の多くは、爆風で吹き飛ばされたガラスや建材等の破片が頭や体に突き刺さり、そのままの状態で避難の列に加わった。
彼らは水と安全なところを求め、市内を流れる川へ避難をはじめた。
なお水道は、供給元である牛田水源地からの給水自体は止まっていなかったが、市中心部ではあちこちの水道管が壊れていたため行き届かず、水を求める被爆者は次々と川へ飛び込んだ。
火災は市内中心部の半径2キロメートルに集中していた家屋密集地の全域に広り、半径2キロメートル以内の全ての家屋、半径3キロメートル以内の9割の家屋を焼失させた。
1945年の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。
原爆が投下された際に広島市内には米軍捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。
そんな中三人は本町の田端産院を見つけた。