幕末異聞―弐―
――ドンドン
「…う…ん…?」
――ドンドンドン
「む〜……何やのこんな時間に…」
粗末な木戸を乱暴に叩く音が寝ている女を目覚めさせた。
――ドンドン
「はいはいはいはい…」
無視をしても一向に鳴り止む気配のない音に、渋々薄い布団から這い出る女。
――ガラッ
「女将はん、…こんな時間に一体どうしはったんどすか?」
女は木戸にもたれる様にして顔半分程度戸を開けた。流石に女である以上、人に起きぬけの浮腫んだ顔は見られたくないようだ。
「幾松はん。簡単でええからすぐに支度しておくれやす」
「…なんで?」
「あんたにお客さんがきてはるんや」
「…だってまだ申の刻(午後五時前後)やで?」
通常、芸妓や舞妓がお客の前に姿を現すのは、午後六時頃である。それまでは置屋も客を取らないというのが原則であった。
「そうなんやけど、どうしてもって言って聞かないんよ。御贔屓の客やし、あんまり強く断れなくて…幾松はんお願い!」
自分が置いてもらっている置屋の女将にここまで頼まれては断るわけにはいかない。幾松は、重々しいため息をついて、腰まである長い黒髪を軽く結った。
「…わかりました。それで、その客は誰なんどす?」
「桂はんです」
「!!?」
女将の口から懐かしい名を聞いて、幾松はバタバタと機敏に動き始めた。
「女将はん!すぐに行くと桂はんに伝えておくれやす!!」
幾松は、女将がまだ戸の向こうにいるにも関わらず、おもむろに来ていた桃色の寝着を脱いだ。
「ちょ…!幾松はん戸閉めるよし!!」
「そんな事構ってる時間ありまへん!はよせんと…」
幾松の心は躍っていた。
週に一度は顔を見せていた男が急に姿を消し、また戻って来たのだ。
突然の嬉しい知らせに、化粧も忘れて置屋に与えられた部屋を飛び出す。ギシギシと軋む階段を二段抜かしで駆け下り、玄関に裸足で下りる。