幕末異聞―弐―
――京都 島原
「山南はん」
風鈴を鳴らしたような心地よい声がする。
この声を聞くたびに、私は彼女に惹かれてゆく。
「どないしはったんどすか?」
綺麗に整えられた天神髷の髪飾りが揺れる。
「何でもないよ。明里」
心配そうに私の顔を覗き込む明里は何とも形容し難いほど美しい。
三味線を置いて傍に寄ってくる彼女からは、着物の胸元に忍ばせた匂い袋の甘美な匂いが微かに漂った。
「何か考え事してはったん?」
上品な口元が弧を描く。
「はは。君の三味線の音色に聴き入ってただけさ」
「まぁ。嬉しいわぁ」
くすくすと笑う彼女の笑顔に私は一体何度救われたことか。そして、これから先、どれだけ救われるのだろうか…。
「明里」
「うん?」
「ありがとう」
「ふふふ。何やのいきなり?調子狂ってしまうわ」
口に華奢な手を当てて笑う彼女を私は抱き締めずにはいられなかった。
「私は、弱い人間なんだ…」
君がいなかったら、私は犯した罪に押し潰されてしまっていただろう。
手の力を抜こうとしても、逆に力が入ってしまう。徐々に彼女の肌の感触が鮮明になっていく。
「情けない。人を斬るのが怖くて刀を抜けないなんて…」
こんな弱音は吐きたくない。だが、彼女を前にすると、そんな自尊心はどこかへ消えてしまう。私は彼女に依存している弱い男なのだ。
「うちは、人を斬るために刀を振るう事だけがお侍さんやない思うんどす」
「?」
明里の暖かい手が私の頬を伝う。
「好いた相手を守るために剣を振るう事こそ、真の漢であり、真の武士なんやないですか?」
白粉を塗った顔に一際はっきりと浮かび上がる黒い瞳が私を捉える。
「明里…」
「ふふ。くすぐったいわぁ」
腕の中の明里の温もりを私は一生離したくないと思う。しかし、朝になったら壬生へ戻らなければならない。
私は出来るだけこの温もりを忘れないように、しっかり抱きしめる。
明日は生きているか死んでいるか解らない。だから五感全てで彼女を感じよう。
何時死んでも悔いの残らないように…