幕末異聞―弐―


池田屋に向かって全力疾走を続ける桂は、ある変化に気がついた。

いつも端から端まで人で埋め尽くされているはずの三条通が池田屋に近づくに連れて静かになっていくのだ。
桂は走りながら池田屋方面から早足で引き上げてくる人々の顔を目で追う。


(…何ということだ!)

道行く人の多数は口を袖で覆い、青い顔をして皆一様に怯えていた。

「くそっ!!」

皮膚がぎゅうっと音を立てるほど手を握り締め、足の回転を更に早める桂。

(このまま行けば池田屋の裏庭に出られるはず!)

遂に人っ子一人いなくなった三条通をヒタヒタと音を立てて走る。
目前には暗闇よりも深い闇に包まれた池田屋が迫っていた。耳を澄ませば、金属音が屋敷のそこら中から聞こえてくる。

(遅かったか!)

桂は腰に差した獲物を握り、足音を一切立てないように忍び足でゆっくりと屋敷に近づく。


「…酷い臭いだ」


池田屋の敷地内まではまだかなりの距離があるというのに、屋敷からは濃厚な血の臭いが漏れ出していた。
桂が血の臭いに鼻を慣らしている時、突然表玄関の方向から大勢の足音と怒号が聞こえた。


“オラーッ!グズグズするな!早く来い!!”



「…壬生狼」


地を震わせるような男たちの声を聞き、桂は池田屋に隣接する料亭の小さな路地に身を隠した。三条通を望めるこの小さな路地からは、新撰組らしき浅葱色の羽織を着た集団が急いで池田屋に向かっているのが見えた。


「これでは近づけんではないか!」


「そうだ。近づかない方がいい」



「………稔麿…稔麿か!!?」



――ズッズルッ…


重たそうな音を立てて壁伝いに桂のいる場所へ向かって来たのは、紛れも無く吉田稔麿だった。

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