幕末異聞―弐―
――六月十八日 京都 三本木・吉田屋
池田屋で起きた事など、忘れてしまったかのように祇園祭は盛大に行われた。
この動乱の世に負けることなく京都の人々は、連日夜通し年に一回の祭りを思う存分楽しんでいた。
――もしかしたら、その馬鹿騒ぎの背景にはいつ命を落とすやもしれんという恐怖を払拭する意味もあるのかもしれない。
池田屋事変を間一髪で生き延びた桂小五郎は窓の外の星を見ながら漠然とそんなことを考えていた。
「また星を眺めとるん?」
いつもの角部屋の襖を開けて入ってきたのは、馴染みの芸妓・幾松。手には歪な形の白い物体を二つ乗せた皿を持っていた。
「…幾松。それは一体なんだ?」
桂は、目の前に座った幾松の手に持った物の正体がわからず、直接本人に確かめる。
「…何?喧嘩売ってはるんどすか?!」
「え?!!いや…そんなつもりはっ!…本気で解らないんだけど…」
はははっと苦笑いをして膳に置かれた皿の上を色々な角度から見てみる桂。
傍らにはその様子を大きな目でじっと見つめる幾松の姿があった。
「にぎり飯」
「…は?」
「だーかーら!!うちが作ったにぎり飯言うてんの!」
桂の耳を真っ赤になるほど引っ張って耳鳴りがするくらい大声で言葉を発した。
「いったたたた…。これ…幾松が作ってくれたのかい?」
「ふん!暇だったからなぁ」
禿(かぶろ)時代以来、全くと言っていいほど炊事に関わってこなかった幾松。当然、調理場に立つなどほとんど未知の経験なはず。それでも、疲労困ぱいしている桂のためにと慣れない手つきでにぎり飯を二つ作ったのだ。
「別にいいんやで?!桂はんに食べてもらおうなんざ思ってへんし!むしろ、うちが食べるために…」
湯気が出る勢いで顔を紅潮させ、あたふたする幾松を、桂は横から優しく抱きしめた。
「ありがとう、幾松」
「…桂はん、最近本当に疲れてはる。もっと体大事にしておくれやす」
顔を衣服に埋めているため、くぐもった幾松の声が振動となって桂の胸板に伝わる。甘い香の匂いに誘われるように、桂は幾松の髪に手を絡ませた。