幕末異聞―弐―
「龍馬!みっともない声を上げんといて」


西郷が坂本よりやや遅れて光が漏れる角部屋を覗くと、中には凛とした居住まいの女性が一人、窓際に姿勢よく座っていた。

「あら、今日は一見さんも一緒なんやね」

女は西郷に気が付くと、切れ長だが大きな二重の目を細めて微笑んだ。

「あ…おいは」

「西郷さんじゃ!」

美しい女に見惚れていた西郷に変わり、膳の料理をつまみ食いしていた坂本が答える。

「あんたには聞いてへんわ!初めましておおきに。うちはお龍いいます。
すんまへんなぁ。この変人に無理矢理連れて来られたんでしょう?」

「あ…いや、そんな事は…」

細い眉を寄せ、何とも言えない儚い表情で自分を見るお龍に西郷は頬を桃色に染めた。

「そうじゃそうじゃ!へごな言いがかりはよせ!」

「あんたが言うと余計説得力あらへん」

ふんっと鼻を鳴らして明らかに坂本を馬鹿にしているお龍。どうやら彼女は相当勝ち気な女性のようだ。

「まあええわ。西郷はん、今お酒持って来るさかい待っていてください」

お龍は着崩れした着物の裾を気にする様子もなく、静かに立ち上がると、暗い廊下に出て行った。



「へへ。ええ女じゃろう?」


お龍が階段を下りたのを確認してから、坂本は照れくさそうにへらへらと笑う。

「ええ。とても」





「守りたいんじゃ」


「…え?」


聞こえるか聞こえないかくらいのくぐもった声で坂本は呟いた。
その顔は窓の外に向けられていて西郷からは表情が読み取れない。障子を開けた窓からは、夏とは思えないほどの爽やかな風が吹き込んでいる。

――嘲笑っているのだろう。こんな醜い争いをいつまでも懲りずに続ける人間を…


「時々わからなくなります。国を、大切な人を守るためと武器を持ったはずなのに…何故こんなに拗れてしまったのでしょうか?」

西郷は耳元でサワサワと笑う風を追い払うように、自らの声で耳を塞いだ。

西郷からの問いに坂本は親指で顎を掻きながら、苦虫を噛み潰したような顔で少しの間思慮していた。




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