幕末異聞―弐―
――元治元年(一八六四年) 七月十九日
「押せ押せぇぇッ!!」
聴覚は怒号や悲痛な声で満たされた。
嗅覚は鉄の匂いにやられ不能になった。
視覚は悲惨な光景を鮮明に映し出していた。
――自分が生きているのか死んでいるのかわからない
銭取橋で名刀・虎徹を握っていた近藤勇は戦乱のさ中、無意識に笑みを浮かべていた。
早朝、京都に潜伏していた長州藩の過激派志士たちがいよいよ行動を起こした。
幕府を潰さんとする無数の長州志士たちが二条城に向けて一斉に進撃してきたのだ。
「クソッ!どんだけ潜んでやがったんだ長州の奴ら!?」
近藤の横に立つ土方が玉の汗を浮かべている額を拭う。
「今のところ、下京からの進行は防げているようだ」
身の回りに注意を張り巡らせつつ、近藤は声を張る。
「問題は、嵐山方面から御所にいる帝を狙ってる奴らだな。まあ、御所の護衛には薩摩が当たってるようだから大丈夫だとは思うが…どうも嫌な予感がする」
「おいおい、縁起でもない事言わんでくれ」
そう言って、笑い飛ばすつもりだった近藤だが、空を見上げる土方の険しい表情がそれを留めさせた。
決して適当に発した言葉ではない。
土方の表情はそう告げていた。
土方の予感が、程なくして現実となる事を、この時は誰も知らなかった。