幕末異聞―弐―
「…何だと?!」
「この話がまっことなら、今頃幕府側の奴らはみんな御所に集められて長州を叩いてるはずぜよ。この辺が静まり返っちゅうってことは、強ち嘘じゃーなさそうだ」
坂本の言うとおりだった。火災の後とはいえ、普通なら助けに来る者や状況確認の者がいてもいいはずだ。だが、ここ寺町通にはまるで世界から取り残されてしまったように俺と坂本しかいない。
「これから御所に行っても…わかるじゃろ?おんしが苦しむだけじゃ。池田屋のような、いや池田屋以上の惨劇が待っとる」
「…解っている。武装蜂起した長州の者たちが窮地に立たされていることも、行ってもどうにもならないことも。それでも俺は…」
「大義を忘れるな!桂!!」
会ってから初めて力強い口調で名を呼ばれて反射的に顔を坂本に向けた。何と痛ましい顔をする男なのだろう。赤の他人に起こっている出来事に、ここまで感情移入できるだろうか?
「いかん!行ってはいかんぞ桂!おんしという指針を失ったら、今度こそ長州藩はただの烏合の衆となってしまう」
「しかし…」
その後の言葉は喉に痞えて出てこない。
どうしていつも俺はこうなんだ?
必死で行かせろと言っている反面、誰かにやめるよう説得されてどこかほっとしている。
誰に指示されるでもなく、自ら進む足を止めた桂の背中に、坂本はそっと手を置いた。
「俺は…日本一の臆病者だ」
「華々しく散る事だけが勇敢じゃない。苦しい事と向き合う方が凄いとわしは思う」
桂の心情を見抜いているのか、ただ偶然に発しただけなのか真相は坂本にしかわからない。しかし、彼の言葉は確実に桂の胸に響いた。
「一緒に、来てくれるが?」
「…ああ」
ゆっくりと頷いた桂を見て安堵の息を漏らし、苦笑いする坂本。
焼け跡で足場の悪い町を支え合いながら、二人は煙の中へと消えていく。
「煙はいつか消えて、澄んだ空気と快晴の空がわしらを迎えてくれる」
そう呟いた坂本の隣で、桂は微かに笑っていた。