忘れられない人
『デザインはシンプルがよろしいですか?それとも‥‥』


少しずつ、男性の求めている指輪に近づき始めていた。
店に来店した頃は不安そうな顔をしていたが、今は真剣な顔で従業員と会話をしている。その中にも、何処となく楽しんでいるようにも感じ取れる一面があった。

こいつが惚れてる女は世界一、いや‥宇宙一幸せ者だ。親父のような感覚で、しばらく二人のやり取りを見守っていた。


閉店時間は随分前に過ぎているが苦にならない。こいつの人柄がそう思わせているのかもしれない。時間はかかったが、漸く基礎となる形が決まった。


『お客様の求めていらっしゃいます指輪は、こちらの棚にございます』

そう案内されたのは俺のいる棚だった。
瞬きをせず一通り目を通した後、ゆっくりと目を閉じた。どの指輪にしようか悩んでいる様子はなかった。

中々瞳を見せてくれない男性が心配になり、従業員は震えた声で問いかけた。

『あ、あの‥お客様どこか具合でも悪いのでしょうか?』


すると男性はゆっくりと目を開けて、さっきと変わらない感じでにこにこ微笑んでくれた。それを見た従業員はほっとしたのか、ぼんやりと立ち尽くしていた。

でも、こいつはそんな事に気が付かず突然お願いを言い出した。

『手にしたい指輪があるんですけど‥いいですか?』

突発的なお願いに対し、店内が一瞬静まり返った。
従業員は倒れかけた体を元に戻し、シャキッとした態度で接客に戻った。

『どちらの指輪でしょうか?』


硝子越しに俺が指名され少し驚いた。まさかここから出れるなんて思ってもいなかった。

こいつの手に渡ったとき、今日初めて逢った気がしなかった。ずっと前からお互いを知っていて、この日のために俺はここで静かに待っていたんだってそう感じた。だから99パーセントの喜びを肌で感じた。でも、100パーセントではない。

残りの1パーセントは、このまま同じ位置に戻されるかもしれないという不安。こいつの手から離れないことを、ただただ祈っていた。
< 113 / 140 >

この作品をシェア

pagetop