忘れられない人
『申し訳ございません。大変気に入っていただきましたのに、9号の在庫はご用意していないなんて。直ちに発注いたしますので、お座りになってお待ちいただけますか?店の者が温かいコーヒーか紅茶を持ってきますが、どちらをご用意いたしますか?』

男性の機嫌を損ねないように丁寧な対応をしていた。また、黙ってしまったのを気にしてか多少早口でしゃべっていたように感じた。


『あの‥』

そう呼んだものの、男性の目は従業員に向けられることはなかった。不安そうな顔を隠し切れないまま、恐る恐る聞いた。

『はい?』

緊迫した空気が二人を包んだ。
外は店のライトアップで華やかに彩られているのに対し、この店の中は、今にも台風が上陸しそうだった。

普通に考えれば、台風が上陸する前に窓を閉めて接触を避けるか、傘を差して打撃を抑えることができる。でも今の状況を中継で伝えるならば、傘も差さずに笑顔でカメラの前に立つリポーターと同じであろう。

防ぎようがない。在庫がないのだから。
この台風を止められるのは、この男性が他の指輪を選ぶか、発注をする事に同意してくれるしか逃れる道はない。


誰もがそう思っていたのに、男性は独自の道を切り開いた。

『9号がその一点なら‥それならその展示の指輪で構いません』

『よろしいんですか?』

台風は通過したものの、その名残はまだ残っていた。男性の口からもう一度、この展示品で良いと聞くまでは安心して窓を開けることが出来ないでいた。


『明日なんです。彼女とのデート。だから明日渡そうと思っていまして。でも、もしかしたら‥』

そこで一旦、開いていた口を塞いで男性は俺を持ち上げた。

『もしかしたら、俺が買い求めていたのは少し色あせたこの指輪かもしれません。この場所で、沢山の幸せそうなカップルや夫婦を見てきたこの指輪が欲しかったのかも』

そう言って、男性は屈託のない笑顔で俺を見た。
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