コーヒー溺路線
 

「俺は婚約披露だってしない」
 


 
松太郎が苦虫を噛むような表情で切羽が詰まったように叫ぶのを、この部署の誰もが見ていた。
彩子もまた、その様子を見ていた。
 


 
「藤山さん、結婚するのかしら。今婚約と言ったわよね」
 


 
目敏く梓が彩子に近寄りそう言った。
 


 
「落ち着きのある藤山さんが自分のことを俺、だなんて余程のことなのね」
 


 
俺という部分を強調させて梓は言った。
彩子は困惑しながらも愛想笑いをして、松太郎を見ていた。その側で根岸が酷く狼狽しているのが見える。
 

ああ根岸部長は知っていたのだと彩子はぼんやりと思った。松太郎は少しだけ落ち着きを取り戻したようで、それから間もなく電話を切った。
 


 
「……」
 

 
「藤山君、大丈夫かね」
 

 
「あっ、皆さんすみません。大声を上げてしまって」
 


 
いくらか落ち着きを取り戻した松太郎は周りからの視線に気付いて頭を下げた。
彩子だけが松太郎の方を向いていないのが松太郎にも解った。
 

キリリと胸が痛んだ。
 


 
「根岸部長、すみません。ついカッとなってしまいました。情けないです」
 

 
「いや、こちらこそすまない」
 


 
謝罪する根岸に松太郎は力無く笑いかけた。
 

こんな風に苛立つ時、彩子を抱き締めることができたならどれ程楽なことだろう、松太郎は身に染みて思った。
仕事帰りに彩子の部屋で食事をする。そんな幸せな時間はもうない。
 


 
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