コーヒー溺路線
 

「今晩は。マスター」
 

 
「やあ。彩子ちゃん」
 


 
彩子はその日の仕事帰りにいつものコーヒーショップへ行った。
新しいコーヒーを買う為と、それからマスターに会う為だ。
 

彩子は今日どうしようもなくマスターに会いたくなったのだ。
マスターはいつもの通りに挨拶をすると彩子専用のマグカップを棚から取り出した。
 


 
「今日は一人なんだね。藤山君は仕事が忙しいのかな?」
 


 
そう言うマスターの声が酷く優しいものに聞こえて彩子は泣きそうになった。
 


 
「そうなの。彼はとても立派な人だから忙しい人なんです」
 

 
「そうか」
 


 
マスターは嬉しそうに笑っている。
彩子は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 


 
「マスター」
 

 
「何だい」
 

 
「私が松太郎さんを、藤山さんを好きなように見える?」
 


 
穏やかな声で彩子は言った。
言葉にできない違和感に襲われながらマスターは首を傾げた。
 


 
「違うのかい?」
 

 
「ふふ。マスターにも解らないことがあるんですね」
 

 
「そんな、だって君は」
 


 
マスターは酷く哀しそうな顔でこちらを見ている。マスターの眼に映る彩子もまた、憂いを帯びた眼をしていた。
 

コーヒーから湯気が立っている。
非常に柔らかな湯気が立ち込める。
 


 
「私が好きなのはコーヒーです」
 


 
マスターが不審そうに彩子を見る。
 


 
「コーヒーをいれるのが好きなの。あの人を好きな訳ではなくて、ただコーヒーをいれるのが」
 


 
マスターは複雑そうな顔で彩子を眺めた。どんな言葉をかければ良いのか、マスターには判らなかった。
 

彩子の宣言だった。
 


 
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