コーヒー溺路線
彩子はいつものようにコーヒーを飲んでいた。もちろんマグカップでだ。
「彩子」
松太郎が声をかけたその先には、少しだけ髪の伸びた彩子がいた。
「松太郎さん」
「彩子」
ああ、こんなに近くにいるのだと思うと、松太郎は情けないことに動くことができなくなった。
彩子はそんな松太郎の泣きそうな表情を見てくすりと笑っている。松太郎は恥ずかしくなって、慌てて革靴を脱いだ。
「どうしたんですか、松太郎さん」
彩子は意地が悪そうな笑みを浮かべてはコーヒーを啜った。松太郎は自分が冷や汗をかいていることに気が付いた。
「マスターに聞いたんだ、君の伝言を。それから鍵を渡された」
「思っていたよりもずっと早かったですね」
「そんな、俺は一年近くも待ったよ。君が七夕の日になんて言うものだから」
彩子はキョトンとしていた。
それから柔らかく微笑んで、約束を守ってくれたんですねと一言言った。
「彩子、今なら堂々と言えるよ」
松太郎は彩子の眼を真直ぐに見た。
「君が好きだ」
「……」
彩子の目頭が途端に熱くなる。
耐えてきたものが喉に詰まって苦しい。
「私、は、コーヒーをいれるのが好きなんですよ」
「……」
松太郎は困ったように俯いた。しかし、彩子の鼻を啜る音に勢い良く顔を上げた。
彩子が泣いている。
「だけど、私のいれるコーヒーを美味しいと言ってくれる貴方が、もっと好きです」
彩子という名前が松太郎の口から出る前に、松太郎は走り出していた。