翼に甘くキスをして
どんな曲を弾いたって、合わせてくれた。綺麗に伴奏してくれた。

様子を見ながらの少しだけぎこちないメロディー。それが心地良かった。ふわふわと、なんだか今まで感じたことのない気持ちになっていた。


でもそれは、ほんのひとときでしかなくて。



「何‥してんだよ」



明らかに怒っているその低い声に、私は、恐いと、そう感じることしか出来なくて。



「……ピアノ」



そんな私の後ろから、ユルい声が答えた。



「見りゃ分かるよ。何で翼まで此処に居る?」



藍色の髪も瞳も、お陽さまから離れているからとても暗い。



「この子、ピアノ弾けるから」



繋がれていた手が、もっとキツくなった。



「来い、翼」

「ヒロ‥くん」



昨日と同じだ。

伸ばされた手を、掴まなきゃいけないのに。



「翼!!」

「‥っ、」



なんで身体が動かない?

怖い? 行きたくない?


違う。


離したく‥ないの。



「……やだ」

「翼?」

「やだ」

「翼‥っ!!」



近付いてきたヒロくんに、思わず目を閉じた。

怒ってる。
ヒロくんが怒ってる。

ヒロくんはいつだって私の為に何かをしてくれた。それは全て、私を正しい道に導く為に。


そのヒロくんが怒るということは、私が間違っているということなんだ。


謝らなきゃ。
謝らなきゃ。

そう思いながら、目を開けた時だった。



「ダメだよ、大空」



頭の上に、後ろのヒトの顎が乗ったんだ。



「風也‥こいつが誰だか、分かってるよな?」

「……さあ?」

「何で一緒に居るんだ?」

「そこで会った」



このヒトの顎で固定された私の頭は、ただ下を向いていることしか出来なくて、ただ鍵盤を眺めることしか出来ない。



「翼から離れろ」

「んー‥無理」

「風也っ」

「‥大空? ダメだよ」



会話は、そんな言葉の繰り返しだった。

その会話の意味が分からなかった所為か、初めてヒロくんの意思に異を唱えた所為か。

私は、白と黒を見つめたまま、それを聞いていることしか出来なかったんだ。



「離れろ」

「無理」



ずっと続く同じ会話。
この無限ループを切り開いたのは……



「風也っ」

「碧!!」



ふたつの声と、



「ふふ」



ひとつの、微かな笑い声。
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