明日へ。
私は1995年5月10日に産まれた。2100gという平均より少し小さいながらも元気に産まれた。小さい手を一生懸命動かして気持ちを表現した。母は39歳という高齢出産で99.9%子供は死ぬと言われていたにもかかわらず、父と一緒に私を大切に育ててくれた。そして、私が生まれた時泣いて喜んだそうだ。その時はまだ私は自分の未来をわかっていなかったんだ。きっと家族そろって毎日たわいのない話をして笑って過ごすのだと…。そう信じてたのに。
まずは、それから5年後の話から…。
私はいつも母に起こされて朝ごはんを食べて父に行ってきますの言葉を交わして保育所に向かった。私はあまり友達をつくるのがうまくなかった。それでも毎日それなりに楽しかったと思う。5時半になると母がお向かいにきて父と遊んだり母と遊んだりした。ご飯は父が作っていた。私は母から「ずっと立ってると足が痛くなっちゃうからパパがご飯を作ってるんだよ。」と聞かされていた。それでも母は特別な日にはお弁当を作ってくれた。私はそれがうれしかった。そんな日々が続いて私は小学生になった。
相変わらず、友達がいなくて何時も一人だった。
つまらない毎日、学校に居ても楽しみがなかった。時を重ねるごとに学校に行かなくなった。6年になった時、クラスで一番人気があった子に声をかけられた、その子の周りには何人かの女子がいたまるで、初めて見る新種動物でも観察するようにじろじろと見てきた。
そんな中、その子が私にこう言った、「どうして何時も一人なの。」私は「人と話すのが苦手なだけ。」そう言って突き放した。女の子は、何も言わず離れていった、別に話しかけて欲しくないわけではないのだが、ただ自分とは違う空気を感じたのだ…。
その事があったあと、家に帰った。
帰る途中、私は家に帰りたくないておもった。
なぜなら、もうすでに私には、地獄の日々が始まっていたのだから…。
まずは、それから5年後の話から…。
私はいつも母に起こされて朝ごはんを食べて父に行ってきますの言葉を交わして保育所に向かった。私はあまり友達をつくるのがうまくなかった。それでも毎日それなりに楽しかったと思う。5時半になると母がお向かいにきて父と遊んだり母と遊んだりした。ご飯は父が作っていた。私は母から「ずっと立ってると足が痛くなっちゃうからパパがご飯を作ってるんだよ。」と聞かされていた。それでも母は特別な日にはお弁当を作ってくれた。私はそれがうれしかった。そんな日々が続いて私は小学生になった。
相変わらず、友達がいなくて何時も一人だった。
つまらない毎日、学校に居ても楽しみがなかった。時を重ねるごとに学校に行かなくなった。6年になった時、クラスで一番人気があった子に声をかけられた、その子の周りには何人かの女子がいたまるで、初めて見る新種動物でも観察するようにじろじろと見てきた。
そんな中、その子が私にこう言った、「どうして何時も一人なの。」私は「人と話すのが苦手なだけ。」そう言って突き放した。女の子は、何も言わず離れていった、別に話しかけて欲しくないわけではないのだが、ただ自分とは違う空気を感じたのだ…。
その事があったあと、家に帰った。
帰る途中、私は家に帰りたくないておもった。
なぜなら、もうすでに私には、地獄の日々が始まっていたのだから…。