幕末異聞ー参ー
(て…手拭い、お湯、腹診器…これで全部…で本当にええんかな?)
太陽が東の空を上ろうとする頃、父が何不自由なく患者の診察が行えるようにと、琴は診療所内を走り回っていた。
「あ!…診療書や!」
診療所を開ける直前に、琴は一番大事な物を忘れていた事に気が付いた。
バタバタと騒がしく琴が向かったのは、医師である父の机。
「はぁ…良かった」
心底からの安堵の表情を浮かべ、大事そうに胸に抱えてきたのは、古ぼけた緑色の冊子。
表紙には擦れた文字で“診療書”と書かれている。
(父上が私に手伝いを頼むなんて…今日はそんなに忙しいんやろか?)
疑問に思った琴は立ち止まり、おもむろに診療書を開いた。
「…なんだ。そんなに忙しくないやん」
紙の匂いと共に文字の羅列が姿を見せた。
彼女が見ている診療書とは、その日に来る予定の患者や過去の診察内容が記録されている、診療所には欠かせない本であった。
「………え?」
診療書を閉じようとした琴の手が凍りついた。
(たた…た大変っ!!)
琴は夏の暑さによる汗ではなく、緊張と混乱からくる油汗がこめかみを伝っていくのを感じた。