幕末異聞ー参ー
「琴、そろそろ札を下げてくれ」
「はい」
濃紺と橙色の幻想的な色調が京の空を覆う頃、九条にある中谷診療所は一日を終えようとしていた。
太陽の下で見事に咲き誇っていた中谷家の朝顔も、次の朝を待つように静かに身を潜める。
「ふう…」
門に掛けてあった“診療中”と書いた木札を抱えて、琴は一息つく。
見れば七条通には、今日の商いを終えた商人が荷車を引いて家路を急ぐ様子がそこかしこに見られた。
「あぁ…間に合わなかったかぁ」
荒い息遣いが門を閉めようとしていた琴の手を止めた。
「…おっ沖田様!?」
橙色に染まった小袖で額の汗を拭う姿は見間違いようがない、沖田総司だった。琴は予想もしていなかった珍客の登場に、抱えていた木札を落としてしまうほど動揺していた。
「貴女!!確かー…そう!お琴さん!」
結った髪が乱れているのも気にせず、沖田は琴に真っ正面から接近する。
「え…えぇえ!?あ、はっい…」
沖田が近づいた分だけ後退りする琴。ついには門の中まで入ってしまった。
「あの、これ」
沖田は明らかに怯えている琴に漸く気付き、少し遠いところから何かを差し出した。
「え…?あっ!私ひ…表札を!!おお、おおきに!」
沖田が拾って差し出した木札を、琴は震える手でそっと掴んだ。