渇望-gentle heart-
あたしの左腕には、常にロレックスの時計が巻かれている。


そしてその下には、きっと誰も知らないだろうけど、リストカットの痕が今も薄く残っているのだ。


別に死のうとなんてしたわけじゃない。


けれど、幼かったあたしの、それが精一杯のSOSのサインだった。


体に傷を残せば、誰かが気付いてくれて、助けてくれると思っていた頃の、愚かな傷。


でも結局は、誰も何もしてくれなかったし、いじめだってなくならなかった。


それが、現実。



「なぁ、どうかした?」


弾かれたように顔を向けてみれば、運転席からハルがあたしの顔を覗き込んで来る。


彼はクリスタルの送迎をやっている、公称18歳。


ベビーフェイスで小悪魔みたいなフェロモンを放つ、詩音さんの飼い犬のひとり。



「仕事前にボーッとしてる香織ちゃんなんて、珍しいと思ってさ。」


気分でも悪い?


と、可愛い顔を傾ける姿には、年下が嫌いなあたしでもグラついてしまいそうだ。



「別にどうもしないわよ。」


「なら良いけどさ。
疲れてるんなら、またには息抜きしなきゃダメだよ。」


屈託なく、彼は言う。


このガキは、誰にでもこうやって平等に、優しい言葉を掛けて回る。


それで何人の女が騙されてるのかなんて知らないけれど、でもあたしにとっては流星以上に見ることはない。


上とか下とかなんて、本当は比べるべきことじゃないはずなのにね。

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