有料散歩
結局のところ、おじいちゃんがゆきに託した短冊は見つからなかった。
だからそのまま約束は反古になり、おじいちゃんの切望はうやむやに消えていくのだと、春樹もゆきも落胆した。悲しかった。
しかし、縁とは不思議なもので、すべてを断ち切ることはできない。
というのも、ゆきの父親はちゃんとその存在を知っていたのだ。短冊に書いてあったことを、読んで、心に留めてあったのだ。
同腹の兄。
明花の子。
知っていたからといって、すぐにどうこうできるものでもなかったけれど。
ゆきの父親は、ゆきから話しを聞くと、悲しいような戸惑っているような、なんとも言えない表情になった。
電話口のゆきには、そうか、としか言わなかったけれど。
その夜、弥生にぽつぽつと語るその背中には、後悔という文字が浮かんでいるようだった。
『知ってたよ。親父は、誤って花切鋏を刺してしまったと言ったけど。あれほど大事に想ってたお袋がいる場所で、まさか、そんなことないだろって。
だけど親父は何も言わなかったんだ。
けど何かあるって思ってた。何か、何か…。子供の時から、親父とお袋が隠してること、何かあるって、ずっと。
短冊見つけた時、正直ふざけるなって思った。
親父もお袋も、俺が中国語解るなんて知らなかっただろうけど。そうだな、思春期の頃特有の、自分のルーツが知りたくなる頃、こっそり勉強したんだよ。だから読めた。読んでしまった。
息子…、愛する息子だと!お袋は、ずっと死ぬまで寝ても覚めても!考えていたと、その気持ちは親父も同じだと、書いてあったんだ。お前の諱は牡丹だって。
俺だって解ってた。
親父とお袋があの牡丹をどれほど大事に育てていたか。台風が来れば夜通し側で見守っているほどだ。そんなの見てれば誰でも解る。ああ、大切なんだなって。
そう思ったら、ああ、俺ってガキだな。一応もう今は父親なのにな。悔しかったんだ。俺はなんだよって。俺は息子じゃないのかよって。
あれほど大事に育ててた牡丹は、そいつの代わりだったからかよ、ってさ。俺を一人きり家に籠もらせて、心細いのをほっといて、嵐の中守ってたのは…、俺じゃなくて…』
弥生が優しく背中をさする。子供のようにその手にすがり付くことはしなかったけれど、心のどこかがほっと息を吐くのが解って童心へ還っていたことに気付いた。
『…、お袋はずっとあいつ、その…、俺の…兄貴になるのか、そいつの側へ行きたかったはずだと書いてあった。だからその願いを叶えてやりたいと。
けど、振り返りながらも一緒になって添い遂げてくれたのもお袋の本当の気持ちだから、このまま親父と二人で日本で眠らせてくれって。
ああ…そうか。
そうか…墓を全部移すんじゃなくて…
そうか…
遺骨と、写真か…
そうかぁ…』
ぽつぽつと、思うがままを話しただけだったが最後にすとんと納得していた。弥生にはそれが解った。
芳郎の声が、芳一に届いたのだと解った。
芳郎が、その父芳夫の言葉を糧に戦後を生き抜いたように。
明花も芳郎も、どちらの息子も変わらず大事に想っていたし、死してなお息子たちと、絆はしっかり結ばれていたと伝えたいのだ。
迎えに来た弥生から全てを聞いたゆきは、迷いのない瞳を輝かせて言った。
「あたし、中国語を習おうかなと思ってるの。」
「うん。」
「おじいちゃん、ずっとあの人のこと…気にして生きてたんだよね。それにお父さんも。」
「そうだね。」
「いつも笑ってたから、全然わかんなかったけど、すごく辛かったと思うんだ。」
ゆきの瞳がさ迷った末に、足元に落とされた。
「だって幸せに浸りきれないっていうか…、後ろめたさっていうのかな、そういうのをずっと持ってるなんて。」
「うん…、辛い…ね。」
「あたしが牡丹みたいって、おじいちゃんが言ったのは話したよね?」
「うん。幸せを運んできてくれたって。」
「うん、あたし考えたの。あたしが運んだ幸せってなんだろうって。」
ゆきが運んだ幸せ。
それは何か。
簡単なことだ。