有料散歩
「おし、じゃあ話すぞ。」
その前に、と言って夏は春樹と自分にお茶を煎れた。
マグカップになみなみ注がれたのはハーブティー。湯気から豊かに広がるのは柑橘系の爽やかな香り。レモンバーム。
飲めばとても清々しい気分に浸れるお茶のはずだが、一口飲んで顔を上げた夏はいつものようににんまり笑っていた。
残念なことにその顔は清々しいには程遠い。
そんな事を考えていると、夏が咳ばらいをひとつして語り出した。
「…未だかつて何もなかった太古。
そこには。
砂も無ければ海も無く。
冷たく寄せる波もなかった。
横たわる大地も。
高くそびえる天も無い。
ただ深く裂けた奈落の口が開いているだけで、
草の一本も生えてはいなかった。」
冒頭から一気に引き込まれた春樹は、知らず知らず身を乗り出して耳を傾けた。
夏は声音を少し抑え、自分もリビングテーブルに肘の先を置いて乗り出す。
まるで内緒話でもするかのように、向かい合って額を近づけたまま続けた。
「奈落の口。
その名をギンヌンガカップと称し、
その南と北にそれぞれあるのは、
眩しく熱いムスペルヘイムなる炎の世界。
冷たく凍えるニブルヘイムなる氷の世界。
ほとばしる熱波と漂う零波とがせめぎ合い落ちた雫は、
霧の巨人を生み出した。」
夏は語り部の才能もあるらしい。つい息を殺して聴き入ってしまうということは、そういうことだ。