あひるの仔に天使の羽根を
私は緋狭様に促され、先に櫂様の元に赴いた。
ひっそりとした建物には、いつもあった気配が感じられない。
訝りながらも、ドアというものがない…芹霞さんに充てられていた部屋に入った時、櫂様は1人、天井を振り仰ぐように力なく立ち竦んでいて。
「櫂様?」
「……桜、か?」
気怠げな端正な顔が、目を細めた私に向けられた。
「怪我は大丈夫なのか?」
「……。はい、緋狭様に助けて頂きましたので。ご心配おかけしました」
「大丈夫なら…本当によかった。
――髪……切られたのか?」
「自分で切りました」
「そう……か。綺麗な髪だったのに…勿体ないな」
「髪は……伸びますから」
穏やかながらも、力ない会話が続いた。
櫂様の顔は、決して晴れやかではなかった。
櫂様と芹霞さんがいつもの関係に戻っていたのなら。
櫂様は芹霞さんの傍を離れまい。
櫂様だけがここにいるということは、彼を制する蟠(わだかま)りがまだあるということで。
それとも、元に戻っていないのだろうか。
「……なあ、桜。俺は……かなり芹霞を傷つけたのか?」
堅い顔で、私にそう聞いてきた。
「あいつが……俺を怖がるんだ」
櫂様には相応しくない怯えの色さえ浮かべ。
だけどそれこそ、芹霞さんを介した時の櫂様の表情で。
「……。記憶は、完全にお戻りに?」
「……と思っているが、よく判らない。もしかすると抜けたもの、矛盾するものがあるのかも知れない」
「………」
「今思えば、誰も彼もを挑発する行為ばかりして、お前にも散々迷惑かけたな」
ねえ、櫂様。
もし玲様と芹霞さんが、"お試し"を解消していないと知ったら、どうなされますか?
それは――
私からは言えない。