あひるの仔に天使の羽根を
 

私は緋狭様に促され、先に櫂様の元に赴いた。


ひっそりとした建物には、いつもあった気配が感じられない。


訝りながらも、ドアというものがない…芹霞さんに充てられていた部屋に入った時、櫂様は1人、天井を振り仰ぐように力なく立ち竦んでいて。


「櫂様?」


「……桜、か?」


気怠げな端正な顔が、目を細めた私に向けられた。


「怪我は大丈夫なのか?」


「……。はい、緋狭様に助けて頂きましたので。ご心配おかけしました」


「大丈夫なら…本当によかった。

――髪……切られたのか?」


「自分で切りました」


「そう……か。綺麗な髪だったのに…勿体ないな」


「髪は……伸びますから」


穏やかながらも、力ない会話が続いた。


櫂様の顔は、決して晴れやかではなかった。


櫂様と芹霞さんがいつもの関係に戻っていたのなら。


櫂様は芹霞さんの傍を離れまい。


櫂様だけがここにいるということは、彼を制する蟠(わだかま)りがまだあるということで。


それとも、元に戻っていないのだろうか。


「……なあ、桜。俺は……かなり芹霞を傷つけたのか?」


堅い顔で、私にそう聞いてきた。


「あいつが……俺を怖がるんだ」


櫂様には相応しくない怯えの色さえ浮かべ。

だけどそれこそ、芹霞さんを介した時の櫂様の表情で。


「……。記憶は、完全にお戻りに?」


「……と思っているが、よく判らない。もしかすると抜けたもの、矛盾するものがあるのかも知れない」


「………」


「今思えば、誰も彼もを挑発する行為ばかりして、お前にも散々迷惑かけたな」


ねえ、櫂様。


もし玲様と芹霞さんが、"お試し"を解消していないと知ったら、どうなされますか?


それは――

私からは言えない。

< 982 / 1,396 >

この作品をシェア

pagetop