失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】




アパートの最寄り駅に着いたのは

もう夕方を過ぎていた

金星が一つ惶々と光っていた

一度しか行ったことのないそこは

昼とは違う夜の風景も手伝って

僕は道に迷っていた



その時間でさえ僕の携帯からの

発信は兄の電話には届かなかった

迎えに来てもらうことも出来ず

僕は正解と違う道を迷い歩いた

僕と兄の心の迷路をそのまま

歩いているようで

僕は歩きながら泣けてきた



三…四十分も迷っただろうか

僕は不意に兄のアパートの前に

立っているのを知った

一階にある兄の部屋は角部屋で

あの寒いあの人の最期の日に

二人で閉めたドアの前に

今は独りで立っていた

兄が居るかどうか確かめるために

窓の灯りが見えるはずの

南のベランダ側に回った

窓にはカーテンが掛かり

部屋の中は良く見えないが

光が隙間から洩れていた

僕は窓に近寄りカーテンの隙間から

兄の姿が見えるかも知れないと思い

こっそりと隙間を探した

すぐに呼び鈴を鳴らすのを

僕はためらった



もしあの男か違う誰かが兄と居ても

何をしているのかバレないように

僕に隠すかも知れないと疑った

南側の窓はベランダ越しで

近くには回れなかった

では西の窓に…と思ったが

柵があり乗り越えなければ

西の窓にはたどり着けない

僕は静かに辺りを見回し

人が居ないのを見計らって

柵を乗り越えた



西側の敷地は狭く猫の通り路にしか

ならないような枯れた夏草がまだ

ボウボウと刈られもせず残っていて

足元が悪く柵から下りるのに

思ったより時間が掛かった

後ろはビルの白い壁が迫っていて

そこは死角となっていた

カーテンが少し開いているらしく

窓から光が南側より太く洩れていた

僕は音をさせないように

ゆっくりと窓に近づいた

兄の部屋を思い出してみると

その窓の真下に

兄のあの忌まわしいベッドがある

はずだった

僕は身を屈めて窓の下に入り

少しづつ膝を伸ばして

窓の中をこっそりと覗いた





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